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== 第2期(1653年 - 1660年) ==
1653年[[12月16日]]、{{仮リンク|[[統治章典|label=統治章典|en|Instrument of Government}}]]公布によりクロムウェルは[[護国卿]]に就任、国務会議も統治章典で復活した。
 
仕事内容は第1期と変わらず行政と外交を受け持ったが、組織の役割がやや異なる。第1期は議会の付属機関に過ぎなかったが、第2期は護国卿と共に立法・行政を行う機関として位置付けられ、委員人数は22人と減少したが任期は終身に変更、議会閉会中に護国卿が軍事・外交を行う場合は国務会議の同意が必要、国務会議は後任護国卿指名権を持つなど権限が強化され、護国卿の牽制も兼ねていた。ただし、委員は建議要目と統治章典の起草者ランバートを始めとするクロムウェルの支持者や身内が大勢選出され、サーローなど委員ではない外部協力者も国務会議の周りを固めたため会議はクロムウェルの諮問機関と化し、護国卿牽制どころか支持基盤強化に繋がった。外交は[[1654年]]4月に[[スペイン]]との戦争に突入({{仮リンク|英西戦争 (1654年-1660年)|en|Anglo-Spanish War (1654–1660)|label=英西戦争}})、それに伴う12月の[[ウィリアム・ペン (イングランド海軍)|ウィリアム・ペン]]艦隊の[[西インド諸島]]遠征(失敗に終わる)、[[1655年]]にフランスと貿易協定(後に[[パリ条約 (1657年)|パリ条約]]に進展)を締結したことが挙げられる<ref name="松村172"></ref><ref>今井、P196、田村、P175 - P176、P244 - P245、P273 - P274、松村、P405、清水、P212 - P213、P252 - P253。</ref>。
 
1654年[[9月3日]]に{{仮リンク|[[第一議会|en|First Protectorate Parliament}}]]開会が予定されていたが、それまでの9ヶ月間はクロムウェルが国務会議の同意を得た上で独自に法を発布、国務会議も彼と協議し財政・法・行政改革を実現しようと幅広い問題の解決に努めた。ところが、第一議会が始まるとクロムウェルと国務会議の改革姿勢は見向きもされず、議会は統治章典を始めとする護国卿体制批判を行い(統治章典に書かれた議会の権限が弱いことなどが批判の根拠)、政府と議会の方向性が違うことが明らかになるとクロムウェルと国務会議は議会と対立、混乱が収まらないため1655年[[1月22日]]にクロムウェルは議会を解散させた。政府は一旦批判を回避したが、この政争で議会の抵抗の激しさを思い知らされた<ref>田村、P176 - P178、清水、P214、P220 - P222。</ref>。
 
政府は[[1656年]][[9月17日]]に{{仮リンク|[[第二議会|en|Second Protectorate Parliament}}]]を召集したが、[[軍政監]]の地方への強権的介入が国民の怒りを招き、反対派が選出されることに危機感を抱いた国務会議は統治章典の条文を濫用して議員100人が追放されたが、議会の反抗的な態度は変わらずクロムウェルの不興も買う羽目に陥った。この追放は尾を引き議員40人退去、[[1657年]]に軍政監維持法案が議会に否決されるなど政府の旗色は悪くなっていった<ref>清水、P228 - P230。</ref>。
 
折しも、クロムウェルを王にする提案が議会からなされ、それによる体制転換が話題になった。クロムウェルは王になることを拒否したが、代わりに統治章典を修正した{{仮リンク|[[謙虚な請願と勧告|en|Humble Petition and Advice}}]]制定を認め、組織構造がかつての王政に近付いた仕組みになった。つまり、ランプ議会で廃止された王政の機関が復活し、国務会議は名称を改め[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]に変更、委員は護国卿が任免権を持ち権限も縮小され存在感を無くした。そして、[[1660年]]の[[イングランド王政復古|王政復古]]で廃止された<ref name="松村172"></ref><ref>田村、P185、清水、P235 - P236。</ref>。
 
== 脚注 ==