「妙円寺 (日置市)」の版間の差分

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[[明治]]2年([[1869年]])には、[[神仏分離]]などに端を発した[[廃仏毀釈]]により破壊され、当時の[[住職]]は島津義弘の位牌などの宝物を持って避難した。明治13年には早くも地元の支援者により、かつての寺地の近隣に再興され、[[徳重神社]]の所有となった宝物の返還を求めたが、達せられないまま現在に至っている。また、明治2年11月までに薩摩藩内1066カ所の寺が廃絶し、2964人いた僧侶も明治7年([[1874年]])までには[[還俗]]させられ、それから数年間、寺院は全て無く、僧侶も全ていない状態になったと鹿児島県史<ref>{{cite wikisource|鹿児島県史|鹿児島県|ja|和書=yes|nobullet=yes}}</ref>にも記されている状況下<ref>{{Cite web|url=https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/bakumatu/haibutu.html|title=廃仏毀釈|publisher=鹿児島県|date=2012-06-27|accessdate=2018-09-11}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150115/276274/|title=寺と僧侶が「完全消滅」した 数字でたどる宗教の系譜(下)|website=日経ビジネスオンライン|publisher=[[日経BP]]|date=2015-01-21|accessdate=2018-09-11}}</ref>において、島津氏における6代から28代までの当主の墓が並び最盛期には約1500人の僧侶がいた南九州屈指の寺だった福昌寺をはじめ、[[日新寺]]や薩摩藩屈指の有力寺院だった[[一乗院 (南さつま市)|一乗院]]など、島津氏に深く関わりがある数々の寺でさえも、廃仏毀釈によりその多くは再興に到らず廃寺のままとなっている中、再興にまで至った恵まれた幸運な寺でもある。復興後の妙円寺は600坪程に縮小されたが、島津義弘の位牌に加え、境内には昭和11年に公爵で島津家第30代当主・[[島津忠重]]の寄贈した石屋眞梁の碑があり、碑銘は陸軍大将・[[町田経宇]]によって書かれている。
 
[[鹿児島本線]][[伊集院駅]]の案内や地図には、この禅寺の所在は記されていないが、伊集院駅近くにある[[鹿児島県道24号鹿児島東市来線|県道24号]]からの道への入口や、徳重神社の敷地内駐車場入口や、城山トンネル交差点、[[鹿児島県立伊集院高等学校]]近くにある[[鹿児島県道37号伊集院日吉]]からの道への入口など様々な場所に、妙円寺と徳重神社それぞれの方向を指す矢印が書かれたうえ、日置市のご当地キャラ『ひお吉』の顔と腕が描かれた看板が、日置市により年中設置されている。また、妙円寺詣りのパンフレットにも、妙円寺が再興されていることが記載されている。妙円寺61代住職・{{読み仮名|伊藤憲一|いとうけんいつ}}の代になってからは、妙円寺の名を冠しながら、現在では徳重神社にて行われている「妙円寺詣り」について、妙円寺は主催者の日置市などに対し名称を「徳重神社詣り」に変更するよう要望している<ref>{{cite news|title=島津義弘ゆかりの妙円寺詣り、本当は神社参拝?|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110112-OYT1T00724.html|publisher=読売新聞|date=2011-01-12|accessdate=2011-01-12}}</ref>。ちなみに、61代住職・伊藤憲一は韓国の禅寺とも交流があり、平成22年10月末には韓国の東國寺で行われた韓国人強制徴用者物故者供養祭という供養祭にも参加している<ref>{{Cite web|url=http://myoenji.jp/cgi-bin/view9/view9.cgi?num=56|title=myoenji_note 日置市伊集院町妙円寺in韓国|publisher=妙円寺|accessdate=2018-08-04}}</ref>。
 
== 谷山大観音 ==
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== 参照文献 ==
* {{Cite book|和書|title=三国名勝図会|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992133/43|accessdate=2018-09-02|year=1843|website=国立国会図書館デジタルコレクション|volume=8|chapter=法智山妙圓寺|ref={{SfnRef|薩摩藩|1843}}}}
* {{Cite book|和書|title=薩藩名勝志|url=http://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/files/2017/03/%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E3%80%80%E7%AC%AC42%E9%9B%86_%E8%96%A9%E8%97%A9%E5%90%8D%E5%8B%9D%E5%BF%97%EF%BC%88%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%B8%80%EF%BC%89.pdf|format=PDF|accessdate=2018-09-23|datadate=20022003-03|website=鹿児島県立図書館|publisher=鹿児島県立図書館|series=鹿児島県史料集|NCID=BA6212633X|volume=42|ref={{SfnRef|鹿児島県立図書館|2002}}}}
* {{Cite book|和書|title=松元町郷土誌|url=http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/documents/201251016312.pdf|format=PDF|accessdate=2018-09-01|datadate=1986-03|website=鹿児島市|publisher=松元町|chapter=第3編 松元町の歴史|ref={{SfnRef|松元町|1986}}}}
 
== 関連項目 ==