「正四位」の版間の差分

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しかし、正四位であっても[[参議]]となり、[[公卿]]に列した者への敬称は氏の下に「[[朝臣]]」、諱の下に「卿」と称した。
一方、正四位下は[[公卿]]に昇ることを許されない[[家柄]]の極位、即ち最高位であり、著名なところでは[[清和源氏]]とりわけ、[[摂津源氏]]、[[河内源氏]]の[[棟梁]]に多くみられた。[[清和源氏]]では初代  [[源経基|経基王]]その子の[[源満仲]]、また満仲の[[長男]]  [[摂津源氏]]の棟梁  [[源頼光]]、[[河内源氏]]の棟梁  [[源頼義]]、[[源義家|義家]]親子など河内源氏代々の棟梁がその位階に昇った。また、[[摂津源氏]]の[[傍系]]ではある、[[美濃源氏]]の[[源光保]]は[[院近臣]]として活躍し、娘 [[土佐局]]が[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]の寵妃となったことで正四位下に昇った。
一方、武家の棟梁として源氏と覇を競った[[平氏#桓武平氏|桓武平氏]]では、公家平氏を別として武家平氏については官位の面でも長らく源氏に遅れをとっていた。しかし、源義家の子 [[源義親|義親]]が[[九州]]や[[隠岐国]]で濫妨を働き、[[平正盛]]がこれを討伐したことで、平氏は家格を上昇させ、その子 [[平忠盛]]の代に正四位上[[刑部卿]]にまで昇り、その嫡男 [[平清盛|清盛]]も29歳の若さで正四位下中務大輔兼安芸守となり、[[平氏政権]]の礎を築いている。源氏においては、[[源頼朝|頼朝]]が平氏追討を遂げるまでの間、この位階に留まったほか、[[鎌倉時代]]は[[鎌倉幕府]][[執権]]北条氏の得宗及び有力一門や有が叙せられ、[[得宗]]では[[北条泰時]]が、有力一門では[[北条政村]]が叙せられた。そのほか、京都の学者貴族出身の有力御家人 [[大江広元]]もこの位階に叙せられている。
 
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* [[源満仲]]
* [[源頼光]]
* [[源頼親]] 
* [[源頼義]]
* [[源義家]]
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* [[宮部鼎蔵]] - 1891年4月8日
* [[平野国臣]] - 1891年4月8日
* [[益田親施]] -  1891年4月8日
* [[福原元たけ|福原越後]] - 1891年4月8日
* [[国司親相|国司信濃]] - 1891年4月8日
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|医師(小児科)、[[大分医科大学]]名誉教授||2017年10月14日||瑞宝中綬章
|}
 
== 出典脚注 ==
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== 参考文献 ==
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* [[贈位]]
* [[大夫]]
 
== 出典 ==
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== 外部リンク ==
* [http://lawelaws.e-gov.go.jp/htmldatasearch/T15elawsSearch/T15CO325.htmlelaws_search/lsg0500/detail?lawId=215IO0000000325 位階令] - [[e-Gov法令検索]]
* [{{NDLDC|787949/168}} 官位相当表] - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
 
{{日本の位階}}