「串原遠山氏」の版間の差分

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分岐した年代や初代の串原城主などは不詳。室町時代には既に分岐していたらしく、[[応永]]28年([[1421年]])の『花営三代記』に「遠山櫛原」、[[永享]]3年([[1431年]])の『永享以来御番帳』に「遠山櫛原五郎」、[[文安]]元年([[1444年]])の『交安年中御番帳』に「遠山櫛原駿河入道」、[[長享]]元年([[1487年]])の『常徳院殿』に「遠山櫛原藤五郎」、「遠山櫛原藤次郎」の名が見える。
 
[[元亀]]元年([[1570年]])12月には、「串原遠山右馬助景男」と「串原遠山五郎教景」が[[武田氏]]の侵攻による[[上村合戦]]に参戦し<ref>『明智年譜』</ref>、武田家重臣の[[秋山虎繁]]と戦って串原遠山右馬助は討死にした。討死にした人物は武田三代軍記では[[串原弥左衛門]]、美濃諸国記には串原弥左衛門親春と記されている。
 
[[天正]]2年([[1574年]])の武田氏の東濃侵攻により串原城は落城した<ref>『甲陽軍鑑』第51品</ref>。その後串原遠山氏の家臣団(堀、中垣、三宅、大嶋)は解体されて長百姓となった。また岩村城が織田方の攻撃により落城した天正3年([[1575年]])、[[串原弥兵衛]]が討死している。遠山右馬助(弥左衛門)の子供[[遠山経景]]は明知遠山氏の武将[[遠山利景]]の養子となって、利景と共に各地で戦功を重ね、[[明知遠山氏]]の再興に貢献した。江戸幕府成立後に養親の利景は[[交代寄合]]となったが、経景は、その領地の中から吉良見村、猿爪村の五百石を与えられ、落合砦の麓に居を構えたが、晩年は吉良見村へ移り住み、元和18年([[1662年]])にこの地で没して火葬にされた。<ref>遠山経景の法名は健雲宗勇大禅定門、葬地は松林山雲祥寺。</ref>。以降子孫は[[旗本]]明知遠山氏の[[家老]]として、経景の11代目の子孫の正景の代に「永田」と改姓し、代々幕末まで明知遠山氏を支えた<ref>恵那市観光文化財情報「殿垣内の供養塔群」</ref>。
 
== 脚注 ==