「キスカ島撤退作戦」の版間の差分

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Koshoku (会話 | 投稿記録)
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第一水雷戦隊の駆逐艦は第九駆逐隊と第二十一駆逐隊のそれのみであり、残りは第十一水雷戦隊や連合艦隊([[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]、[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]])など、他の部隊の借り物だった<ref>木俣滋郎『日本水雷戦史』 p167</ref>。
 
7月10日、アムチトカ島500海里圏外で集結した撤収部隊は一路キスカ島へ向かった。計画では12日が"X日"つまり撤収決行日であった{{refnest|[[#城日記|城英一郎日記]]298頁<ref group="注釈">「(昭和18年)七月一二日(月)曇後晴(中略)○北方「ケ」号作戦は、情況良ければ、昨夜実施の電ありたるも、今朝未だ何等の報告なし。(以下略)」</ref>}}。だがキスカ島に近づくにつれ、霧が晴れてきたため突入を断念、一旦反転して予定日を繰り下げて決行日を13日とした。ところがこの13日も霧が晴れ、翌14、15日と決行したが全て途中で霧が晴れてしまい、突入を断念せざるを得なかった。この慎重にも慎重を期した行動は木村少将自身がこの年の3月初旬に参加した第八十一号作戦([[ビスマルク海海戦]])の敵空襲を受けた経験から来ていると言われる。上空援護のない状態での空襲は水雷戦隊にとって致命だということを、木村少将は嫌というほど知っていたのである。
 
ここに来て、燃料の残量も少なくなってきたことから木村少将は15日午前8時20分、一旦突入を諦め幌筵へ帰投命令を発した。「帰れば、また来られるからな」と言い残しての命令だったといわれる。こうして撤収部隊は18日に一旦幌筵へ帰投した<ref name=a>[[佐藤和正]] 『艦長たちの太平洋戦争』</ref>。出撃していた那智以下北方部隊主隊は15日に幌筵に帰投していた<ref>戦史叢書(29) p620</ref>。