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Piano2012 (会話 | 投稿記録)
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'''沃沮'''(よくそ、옥저)は、[[紀元前2世紀]]から[[3世紀]]にかけて[[朝鮮半島]]北部の日本海に沿った地方(現在の[[咸鏡道]]付近)に住んでいたと思われる民族。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』や『[[後漢書]]』では'''東沃沮'''(とうよくそ)と表記される。
 
== 概要 ==
[[ファイル:Map ofThe east barbarian 1.png|thumb|350px|[[2世紀]]頃の[[東夷]]諸国と東沃沮,北沃沮の位置。]]
『三国志』では、北東は狭く西南に広い、高句麗の蓋馬大山(長白山脈)の東から海岸までに及び、北に挹婁・夫餘と、南に濊貊と接し、その言語は高句麗と大体同じで時に少し異なると記される。
 
「沃沮」という独自の国家があったのではなく、[[前漢]]の[[玄菟郡]]の夫租県(現在の[[咸鏡南道]]の[[咸興市]]付近)にいた濊貊系種族を指すものと考えられており、同じく濊から分かれた夫余・東濊や高句麗とは同系とされている。[[1958年]]に[[平壌]]の楽浪区域で出土した「夫租薉君」銀印や、[[1961年]]に出土した「夫租長印」銀印、『[[漢書]]』巻28地理志「夫租」などから、本来は「夫租」であったと考えられている<ref name=tanaka>[[田中俊明 (朝鮮史)|田中俊明]]「朝鮮地域史の形成」『世界歴史9』[[岩波講座]]、[[1999年]]、ISBN 978-4000108294 p134</ref>。しかし、『三国志』以降は沃沮と表記されるが、これは夫租を誤記したためと考えられている<ref>「沃沮」(よくそ)の語源については、かつては何らかの現地語を表したと考えられ、日本語の「えみし」や満洲語の「ウェチ」(森林の意味)との類似をあげる説もあったが、現在では「夫租」(ふそ)が正しく、「沃沮」は単なる誤記が定着したものというのが通説であ。</ref>。[[1958年]]に[[平壌]]の楽浪区域で出土した「夫租薉君」銀印や、[[1961年]]に出土した「夫租長印」銀印は、夫租地域にいた濊族の[[首長]]に贈られたものであり、夫租地域での濊族の居留が裏付けられている<ref name=tanaka/>。
 
== 東沃沮 ==
『三国志』東沃沮伝によれば、始め[[衛氏朝鮮]]に帰属していたが、漢の[[武帝 (漢)|武帝]]により[[漢四郡]]([[楽浪郡]]・[[真番郡]]・[[臨屯郡]]・[[玄菟郡]])が置かれた際に、[[沃沮城]](夫租城)を玄菟郡の県にした。以来、沃沮(夫租)は玄菟郡の支配下に入り、後に玄菟郡の縮小に伴って夫租県が[[楽浪郡]]に転属すると、沃沮(夫租)は楽浪郡に帰属することとなった。後、[[3世紀]]の頃には高句麗に臣従していた。[[魏 (三国)|魏]]の[[カン丘倹|毌丘倹]]が高句麗に攻め入った際には、高句麗王の[[東川王|憂位居]]が'''北沃沮'''に逃れたという。この記事に続けて北沃沮・'''南沃沮'''と言う表現が見られるが、南沃沮とは東沃沮を指すと考えられている。
 
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東沃沮は、東以外にも別の沃沮が存在するという意味ではなく、[[東方]][[民族]]の沃沮程度の意味だという<ref name=tanaka/>。
 
== 北沃沮 ==
前述の通り、北沃沮は『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』東沃沮伝の中に見える名称で、別名で'''置溝婁'''ともいう。南沃沮(北沃沮の対比での表現。東沃沮そのものを指す)から800里離れるが、南北ともに同じ習俗であり、北を[[挹婁]]と西を[[夫余]]と南を[[高句麗]]と接していた。
*「置溝婁」を「買溝」と書いている例があることから、通説では「置溝婁」は誤写で、正しくは「買溝婁」であるとする説ある。も「置溝婁」ならば現地語で「北城」または「木城」の意味であり(戦前には日本語の「津軽」との関係を考える説もあった)、「買溝婁」ならば現地語で「水城」の意味される。
*きわめて少数意見ではあるが両方とも実在で二つの別の地名とする説もある(李炳涛説)。この場合「置溝婁」は現在の[[咸鏡北道]]の[[鏡城郡]]、「買溝婁」は[[江原道 (北)|江原道]]の[[文川市|文川]]に比定される。李炳涛によれば、毌丘倹に追撃された時の高句麗王宮の逃走路は、まず「買溝婁」(文川)へ入りそこから北上して「置溝婁」([[鏡城]])に到達したというのである。
 
== 怪異 ==
== 日本人(倭人)について ==
『[[三国志]]』東夷伝東沃沮の条に、日本人([[倭人]])とみられる以下の記述がある。
 
[[王頎]]が毌丘倹の命令で[[高句麗]]王を追撃し、北沃沮の東方の境界まで至った際、そこの老人に「この海の東にも人は住んでいるだろうか。」と尋ねると、「昔、ここの者が漁にでたまま暴風雨にあい、10日間も漂流し、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では毎年7月に童女を選んで海に沈めます。」と答えた。また、「海の彼方に、女ばかりで男のいない国もあります。」や、「一枚の布製の着物が海から流れ着いたことがあります。その身ごろは普通の人と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました。また、難破船が海岸に流れ着いたことがあり、その船にはうなじのところにもう一つの顔のある人間がいて、生け捕りにされました。しかし、話しかけても言葉が通じず、食物をとらぬまま死にました。」などとも答えた。
 
== 言語系統 ==
{{main|扶余語族}}
中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書烏丸鮮卑東夷伝 高句麗「東夷旧語以為夫餘別種,言語諸事,多与夫餘同」、『[[後漢書]]』東夷列伝 高句驪「東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同」</ref>、'''沃沮'''と[[濊|ワイ人]]もほぼ同じとされる<ref>『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 東沃沮「其言語与句麗大同,時時小異。」濊「言語法俗大抵与句麗同,衣服有異。」、『後漢書』東夷列伝 東沃沮「言語、食飲、居處、衣服有似句驪。」濊「耆旧自謂与句驪同種,言語法俗大抵相類。」</ref>。一方、東の[[挹婁]]は独特の言語を使っていたとされ、夫余の言語と異なる<ref>『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 挹婁「其人形似夫餘,言語不与夫餘、句麗同」、『後漢書』東夷列伝 挹婁「人形似夫餘,而言語各異」</ref>と記される。ここで2つの言語系統が存在することがわかる。挹婁は後に靺鞨へ、靺鞨から女真へと名称の変化が辿れるので、挹婁の言語はツングース系の言語だったというのが定説である(異説として[[古アジア語]]という説もある)が、[[扶余諸語]]がどの系統に属すのか判断する手掛は[[日本語]]説、[[ツングース語]]説、[[朝鮮語]]説、「歴史の中で消え去って現代まで残らなりがほった失われた言語系統」説、「日本語朝鮮語が分岐する前の共通祖語」説な現存しておらがあるがい、現在れも定説至ってもよく解はなっていない。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
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* [[武田幸男]]編『新版世界各国史2 朝鮮史』2000年、山川出版社、ISBN 4-634-41320-5
*李炳涛『韓国古代史』
*大原利武『満鮮に於ける漢代五郡二水考』1933年、近沢書店
 
==関連項目==