「遣唐使」の版間の差分

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白村江の戦い3回交渉出典貼付、20年留学費用なく短縮を上奏し唐朝許可を出典と記述、最澄承和遣唐使を付記
→‎回数: 坂合部石布・東漢長阿利麻・坂合部石積・坂合部大分をリンク。
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|align="center"|3||白雉5年<br />([[654年]])||斉明元年<br />([[655年]])||[[高向玄理]](押使)・[[河辺麻呂]](大使)・薬師恵日(副使)|| ||align="center"|2||高向玄理は帰国せず唐で没
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|align="center"|4||斉明5年<br />([[659年]])||斉明7年<br />([[661年]])||[[坂合部磐鍬|坂合部石布]](大使)・[[津守吉祥]](副使)||[[伊吉連博徳|伊吉博徳]]||align="center"|2||第2船の津守吉祥らは浙江省に到着。長安にて皇帝に拝謁。大和朝廷の服属国民として[[蝦夷]]人を伴っており、謁見の場にも連れてきている。一行はその後暫く抑留される。第1船は往途で南海の島に漂着し略奪に遭い、坂合部石布が殺される。[[東漢長阿利麻]]・坂合部稲積ら生き残った5人で島の船を奪って大陸に至り、翌660年に落陽にて津守吉祥らと再会。復路、暴風に遭い数日間漂流。[[耽羅]]([[済州島]])に漂着し、王子の[[阿波伎]]等を伴って帰国。『遣耽羅使』も参照。
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|align="center"|5||天智4年<br />([[665年]])||天智6年<br />([[667年]])||colspan="2"|[[守大石]](送唐客使)・[[坂合部磐積|坂合部石積]]・吉士岐彌・吉士針間|| ||唐使の[[劉徳高]]を送る。唐使の[[司馬法聡]]が来日
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|align="center"|(6)||天智6年<br />([[667年]])||天智7年<br />([[668年]])||colspan="2"|[[伊吉博徳]](送唐客使)|| ||唐使の司馬法聡を送る。唐には行かず?
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|align="center"|7||天智8年<br />([[669年]])||不明||[[河内鯨]](大使)|| || ||第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
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|align="center"|8||大宝2年<br />([[702年]])||慶雲元年<br />([[704年]])||[[粟田真人]](執節使)・[[高橋笠間]](大使)・[[坂合部大分]](副使)||[[山上憶良]](少録)・[[道慈]]||align="center"|4|| 701年に粟田真人を執節使(大使より上位)として任じられるも風浪が激しく渡海できず。翌702年6月に改めて出立するも、高橋笠間は別の任に充てられ渡航せず、参議となっていた粟田を大使として出立。701年の出立の際に粟田は[[文武天皇]]から[[節刀]]を授けられた。これが天皇が節刀(遣唐使や征夷将軍などに軍事大権の象徴として授けられた)を授けた初例とされる。また「日本」の国号を使用し、[[白村江の戦い]]以来の正式な国交回復を目的としていた。慶雲元年(704年)、白村江の戦いで捕虜になっていた者を連れて[[五島列島]][[福江島]]に漂着帰国。
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|align="center"|9||養老元年<br />([[717年]])||養老2年<br />([[718年]])||[[多治比縣守]](押使)・[[大伴山守]](大使)・[[藤原宇合|藤原馬養(藤原宇合)]](副使)||残留 [[阿倍仲麻呂]]・[[吉備真備]]・[[玄ボウ|玄昉]]・[[井真成]]||align="center"|4|| 前回の倍以上となる総勢557人。残留した留学生を除き、使節は全員無時に帰還。藤原馬養は唐滞在中に「宇合」と名を改めた。