「燃える人の舞踏会」の版間の差分

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パントワンが著した年代記における舞踏会の記録は、シャルル6世の治世における約25年間を扱った『シャルル6世の歴史(''Histoire de Charles VI'' )』に含まれている<ref>Guenée, Bernard. (1994). [http://www.persee.fr/web/revues/home/prescript/article/bec_0373-6237_1994_num_152_2_450736 "Documents insérés et documents abrégés dans la Chronique du religieux de Saint- Denis"]. ''Bibliothèque de l'école des chartes''. Vol. 152, No. 2, 375–428. Retrieved April 18, 2012.</ref>。パントワンが野蛮人のダンスは社会的道徳観に反したものであり、王がそれに参加したのは軽率であったと批判的な姿勢を示している一方で{{#tag:ref|パントワンは王の参加したダンスを「あらゆる良識に逆行する」ものと評している<ref>Tuchman (1978), 504</ref>。|group="注釈"}}、フロワサールは王の参加したダンスが単なる祝賀行事であったと述べている<ref name ="Crane155ff"/>。
[[File:Bal des Ardents Harley manuscript detailBal_des_Ardents_Harley_manuscript.jpg|thumb|[[ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)|ハーレー]]のフロワサール写本(1470年–1472年頃)における舞踏会記述描写。[[ブラックレター]]で書かれたフランス語が見えで記述されている<ref name= "BL"/>。]]
 
専門家は、フロワサールもしくはパントワンが「燃える人の舞踏会」に居合わせていたか否かは不明であるとしている。クレーンは、フロワサールの記録は舞踏会の約5年後に、パントワンの記録は約10年後に作成されたものであるとしている。ヴィーンストラは、パントワンが舞踏会での出来事を直接目撃していた可能性はあると推測しており、彼の記録はフロワサールのものよりも正確であると考えている<ref name ="Crane155ff"/><ref>Veenstra (1997), 22</ref>。パントワンの年代記はシャルル6世の宮廷を理解するにあたって不可欠なものと広く考えられているが、その内容の中立性は作者の親ブルゴーニュ派・反オルレアン派的なスタンスによって損なわれている可能性があり、王と王妃の否定的な描写につながっているという指摘がある<ref>Adams (2010), 124</ref>。事件の第3の記録は、15世紀半ばのジャン・ジュヴェナル・デ・ジュルサンによる伝記『フランス王シャルル6世の歴史(''L'Histoire de Charles VI: roy de France'')』に含まれているが、これは1614年になるまで出版されなかった<ref>Curry (2000), 128; Famiglietti (1995), 505</ref>。