「アルゴ・ピクチャーズ」の版間の差分

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== 歴史 ==
<!--''以下の内容は、[[佐野眞一]]の著書「日本映画は、いま」([[TBSブリタニカ]])をもとに再構成したものである。''-->
[[1989年]]、6人の[[映画プロデューサー]]が、閉塞状況にあった日本映画業界に風穴を開けるべく「'''アルゴ・プロジェクト'''」なる組織を立ち上げ、[[1990年]][[2月14日]]に正式に法人化された。メンバーは以下のとおりであった。
*[[多賀英典]]([[キティ・フィルム]]([[多賀英典]])
*岡田裕([[ニュー・センチュリー・プロデューサーズ]](岡田裕
*[[佐々木史朗 (映画プロデューサー)|佐々木史朗]]([[シネマハウト]])
*[[増田久雄]]([[プルミエ・インターナショナル]]([[増田久雄]])
*[[山田耕大]](メリエス)
*宮坂進([[ディレクターズ・カンパニー]](宮坂進
 
[[映画製作|製作]][[映画配給|配給]][[興行]]を自分たちで一貫して手がけることで、「大手映画会社の意向に左右されない」真の自分たちの映画を世に送り出そうとするシステムだった。このシステムの実現のため、東京と大阪に専用上映館「シネマアルゴ新宿」「シネマアルゴ梅田」が開館された。
[[1989年]]、6人の[[映画プロデューサー]]が、閉塞状況にあった日本映画業界に風穴を開けるべく「アルゴ・プロジェクト」なる組織を立ち上げ、[[1990年]][[2月14日]]に正式に法人化された。メンバーは以下のとおりであった。
*[[キティ・フィルム]]([[多賀英典]])
*[[ニュー・センチュリー・プロデューサーズ]](岡田裕)
*[[シネマハウト]]([[佐々木史朗]])
*[[プルミエ・インターナショナル]]([[増田久雄]])
*メリエス([[山田耕大]])
*[[ディレクターズ・カンパニー]](宮坂進)
 
設立当初から[[サントリー]]が製作パートナーとなり、法人の資本金の半分はサントリーが出資した。製作体制は、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]がテレビ放映権、ビデオ化権を「ビデオチャンプ」(サントリー・[[TBSブリタニカ]]・[[読売広告社]]の出資による[[ビデオソフト]]製作会社)が持つことで、作品毎の製作費の一部を確保し、残りの製作費をサントリーと各プロデューサーが折半するという形態だった。
製作・配給・興行を自分たちで一貫して手がけることで、「大手映画会社の意向に左右されない」真の自分たちの映画を世に送り出そうとするシステムだった。このシステムの実現のため、東京と大阪に専用上映館「シネマアルゴ新宿」「シネマアルゴ梅田」が開館された。
 
話題作が次々と発表されてきたが、興行的に成功したものは数えるほどしかなかった。やがて法人としての赤字が重なり、様々な問題が噴出し、[[内部崩壊]]が始まった。自分たちの専用上映館も閉館に追い込まれた。
設立当初から[[サントリー]]が製作パートナーだった。法人の資本金の半分はサントリーが出資していた。<BR>
製作体制は、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]がテレビ放映権、ビデオ化権を「ビデオチャンプ」(サントリー・[[TBSブリタニカ]]・[[読売広告社]]の出資による[[ビデオソフト]]製作会社)が持つことで、作品毎の製作費の一部を確保し、残りの製作費をサントリーと各プロデューサーが折半するという形態だった。
 
話題作が次々と発表されてきたが、興行的に成功したものは数えるほどしかなかった。やがて法人としての赤字が重なり、様々な問題が噴出し、[[内部崩壊]]が始まった。自分たちの専用上映館も閉館に追い込まれた。
 
[[1993年]]に「アルゴ・ピクチャーズ」と改名し、現在の形態になった。現在は「企画の開発・製作」「配給委託」が主な業務となっている。
 
2008年配給の[[靖国 YASUKUNI]]の一時上映中止については、公開映画館[[エスピーオー]]の「アルゴピクチャーズから配給を止められたので中止した。上映の最終的判断はアルゴピクチャーズに委ねられている」との表明に対して、アルゴ・ピクチャーズ側は「全て上映映画館の自主的判断に委ねられている」とのコメントを出した。
 
== 制作・配給作品一覧 ==