「祇園祭 (1968年の映画)」の版間の差分

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[[1950年]]、[[マルクス主義]]に基づく「新しい歴史学」を市民に啓蒙する活動の一環として、[[立命館大学]]教授だった[[林屋辰三郎]]を中心に[[紙芝居]]『祇園祭』が作成された<ref name=mahoko>[http://www.shc.usp.ac.jp/kyouraku/profile/thesis/movie.html 映画と歴史学 ‐『山椒大夫』から『もののけ姫』へ‐]京樂真帆子、『史風』第4号,1999年</ref>。ストーリーは、応仁の乱後、京都の町衆たちが室町幕府権力に抗して自治体制を築き、その象徴としての「祇園祭」を復興するというものであり、林屋の「町衆論」をドラマ化したものであった<ref name=mahoko/>。[[民主主義科学者協会]]京都支部歴史部会に参加していた学生らによって、[[1952年]]に大型の紙芝居が完成し、[[国民的歴史学運動]]として紙芝居興行が各地で打たれた<ref>[http://www.kyoto-minpo.net/archives/2008/07/14/50_9.php 50年ぶり紙芝居「祇園祭」]京都民報、2008年7月14日</ref>。当時京大の学生であった[[大島渚]]、大映の助監督だった[[加藤泰]]も参加していた。民衆の抵抗ぶりを紙芝居に仕立て、それを農民や労働者に見せて啓蒙するのが当時の大学生による歴史学研究会の小さな流行だった<ref>[http://www.repository.lib.tmu.ac.jp/dspace/bitstream/10748/3253/1/20009-37-004.pdf 国民的歴史学運動における 「国民」 化の位相 ]小国喜弘、首都大学人文学報、2002.3</ref>。
 
この紙芝居に当時から関心を持っていた映画監督の伊藤大輔は、[[1961年]]に、林屋の友人でもあり<ref name=imanishi>[http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/bitstream/10252/4813/1/RLA_123_001-022.pdf 歴史学と表象]今西一、小樽商科大学人文研究 (2012), 123</ref>[[日本共産党]]の京都市議会議員で作家でもあった西口克己が小説『祇園祭』を執筆出版すると、これを読んですぐに映画化を企画した。錦之助の主演作ということで、いったんは東映で企画が通り脚本の準備までしたものの、結局予算が下りず中止された<ref name=mahoko/>。[[1967年]]5月に芸能ライターの[[竹中労]]が『祇園祭』の映画化を再企画し、西口克己を通じて京都府に持ちこみ、7月に革新系の[[蜷川虎三]]知事のもと京都府が府政百年記念事業の一つとして全面的に支援することが決まり、製作が具体化した<ref name=takenaka69>竹中労「まぼろしの祇園祭」/『キネマ旬報』(1969年1月上旬号)</ref>。竹中は[[五社協定]]の打破とブロック・ブッキングによる配給体制の突き崩しを目指す構想を立て、大阪と東京の労音([[勤労者音楽協議会]])や東映俳優労働組合とその支援者の協力を得て、映画の製作・上映形態の抜本的変革を試みようとしたが、挫折した<ref name =takenaka69/>。また、竹中は、映画『祇園祭』のジェネラル・プロデューサーとして、まず東映京都撮影所長(当時)の[[岡田茂]]を候補に上げ、交渉したが(東映)|岡田茂]]<ref name=juudan>{{Cite book|和書|author=[[竹中労]]|title=日本映画縦断Ⅰ 傾向映画の時代|year=1974|publisher=白川書院|isbn=|pages=126-127}}</ref>、断られ、次に元日活専務の江守清樹郎に依頼したが、断られたという<ref name=takenaka69-2>竹中労「続まぼろしの祇園祭」/『キネマ旬報』(1969年1月下旬号)</ref>。結局、企画・製作の中心にいた竹中労は、原作者の西口克己や京都府議会の有力共産党議員たちと対立し、1967年10月プロデューサーの座を引きずり降ろされ、志半ばで退任しなければならなくなった<ref name=takenaka69-2>。
その後、製作は半年間中断されたが、竹中労退任の前後にも、[[八尋不二]]から[[鈴木尚之]][[清水邦夫]]への脚本家の交代、当初からの製作者の一人であった小川三喜雄(錦之介の兄で東映時代は小川貴也)の退任、共同監督の加藤泰の降板などがあり、1968年8月、脚本が未完成のまま見切り発車でクランクインする事態を招き、監督の伊藤大輔が愛弟子の山内鉄也に交代して、映画『祇園祭』が完成した。
なお、日本中世史の研究家である[[河内将芳]]は、祇園祭に立ちふさがったのは幕府でなく[[延暦寺]]の[[大衆]]であり<ref>[http://www7b.biglobe.ne.jp/~bukatucenter/0809aki.pdf 戦国時代の祇園祭]カトリック大阪教会管区部落問題活動センター事務局、2008年9月</ref>、侍と町衆の対立としてのみ描いたストーリーに対しては疑問を呈している<ref name=hasan>[http://mass-ronbun.up.seesaa.net/image/2014fall_G3_Topacoglu.pdf 明治百年祭(1968年)と「京都」イメージの確立]トパチョール・ハサン、日本マス・コミュニケーション学会・2014年度秋季研究発表会・研究発表論文、2014年11月8日</ref>