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顧炎武は元の名を絳、字を忠清という。清代になって炎武という名に改め、字は寧人、号は亭林とした。南直隷崑山県千墩([[江蘇省]][[崑山市]][[千灯鎮]])の出身である。明末の[[東林党]]の流れを引き継ぐ[[政治結社]][[復社]]に参加していた。[[1644年]]に[[李自成]]によって明が滅び、清が[[中国本土]]に侵入してくると郷里の子弟を組織して義勇軍を結成して清朝支配に抵抗して、各地を流浪しては反清の活動に積極的に携わっていた。
 
各地を流浪するにあたり、一緒に共する馬に書物を満載しながら文献と照らし合わせた実地調査を行い、地理や歴史の研究に勤しんだ。[[経学]]、[[訓詁学]]、[[金石学]]などにも精通していた彼は[[陽明学]]を批判、実証学的な研究を行い世間に有益な[[経世致用の学]]を追究した。晩年は[[陝西省]]の[[華陰]]に居を構え、清朝の招聘を断り続けた。おいの[[徐乾学]]は、1670年に進士(3番で合格)、清朝の高官(刑部尚書)となった。
 
==その著書と思想==