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[[File:VilliersEdward CU SJ 215sm.jpg|thumb|right|200px|初代ジャージー伯エドワード]]
'''初代ジャージー伯爵エドワード・ヴィリアーズ'''(Edward Villiers, 1st Earl of Jersey, [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[1656年]] - [[1711年]][[8月25日]])は、[[グレートブリテン王国|イギリス]]の貴族・政治家。[[エドワード・ヴィリアーズ (1620-1689)|サー・エドワード・ヴィリアーズ]]と[[サフォーク伯]][[セオフィラス・ハワード (第2代サフォーク伯)|セオフィラス・ハワード]]の娘フランシスの末子で初代[[バッキンガム公]][[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]]は大叔父、[[イングランド王国|イングランド]]王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の愛人の1人[[バーバラ・パーマー]]は従姉、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]の愛人でイギリス[[元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]兼オークニー伯[[ジョージ・ダグラス=ハミルトン (初代オークニー伯)|ジョージ・ダグラス・ハミルトン]]の妻[[エリザベス・ハミルトン]]は妹に当たる。
 
== 生涯 ==
[[1689年]]に父が亡くなり[[サー]]の称号を継承、王室の馬の世話役としてウィリアム3世・[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]夫妻に仕えた。[[1691年]]にヴィリアーズ子爵に叙爵、[[1696年]]に[[レイスウェイク条約]]締結会議にイングランド代表として出席、[[1697年]]にジャージー伯に叙爵、[[1698年]]から[[1699年]]まで[[在フランスイギリス大使|駐仏大使]]、1699年から[[1700年]]まで南部担当国務大臣、更に[[宮内庁長官官房|宮内長官]]に転任するなど官職を経験していった。しかし、[[1704年]]に[[アン (イギリス女王)|アン女王]]と[[シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)|シドニー・ゴドルフィン]]の意向で宮内長官を罷免され、[[1706年]]に[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]政権が成立すると他の[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]員と共に枢密院からも排除された。