「メッサーシュミット Me262」の版間の差分

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ジェット戦闘機の開発は開戦前の[[1938年]]から始まっていたが、実用化は終戦直前となった。[[1939年]]には[[ハインケル]]社がジェット機の初飛行成功、本機に先んじて[[ターボジェットエンジン]]の製作が[[BMW]]社及び[[ユンカース]]社で始まっていた。
 
1939年1月4日、航空省からメッサーシュミット社にジェット戦闘機の仕様が提示された、その仕様は単発で戦闘高度で30分の滞空時間を持つ戦闘機を要求しており、メッサーシュミット社の技術陣は単発でレシプロ戦闘機を大きく上回る性能を得るには推力650kgのエンジンが必要だと計算しており、推力315kg程度のエンジンを2基装備した双発機の機体の方が重量が軽く生産も容易であることから、1939年6月7日、メッサーシュミット社から双発機仕様のP1065の設計案を航空省に提出した。これは、全幅9.40m、全長9.30mとMe262より一回り小さく、主翼は直線翼を中翼配置とし、エンジンを主翼の半ばに主桁を貫通する形で装備し、着陸装置は尾輪式で主脚は主翼に取付けて内側に引き込み胴体内で主輪を約50°捻って収納する案であり、それに先立つ研究案では、主翼は直線翼を低翼配置とし、エンジン配置を主翼の半ばの主桁を貫通する形で装備し、着陸装置は尾輪式で主脚は主翼に取付けて内側に左右に互い違いに引き込み主輪を胴体下部で収納する案であったが機構が複雑で構造的にも問題があった。
1939年6月7日、メッサーシュミット社からP1065計画が立案されたが、様々な設計変更を余儀なくされ、後に実用化された機体とは外見が大きく異なっていた。主な設計変更箇所を以下に述べる。
 
その後、胴体は胴体下部の幅を広げて三角形に近い断面とし、主翼を低翼配置として着陸装置の主脚を内側に引き込み胴体内に収納する方式となり、これに加えてエンジンの配置を主翼下部に変更して主翼の外翼部に18.5度の後退角を付ける変更をしている。これは、装備を予定していたBMWエンジンが開発中に次第に大形化し重量が増加して、主翼の半ばの主桁を貫通する形で装備すると、主翼の構造重量が増し、そのエンジンナセルと胴体に挟まれた主翼の内翼部(エンジンと胴体の間の部分)の空気流に干渉する恐れがあるのと、そのまま装備すると機体の重心を大きく狂わす結果になり、主翼外翼部に後退角を付けることで主翼の空力中心を動かし機体の重心と釣り合わせることにしたためであり、臨界マッハ数を上げる後退翼の効果の認識を持っての設計変更ではない。また、主翼下面にエンジンを取付けることで、将来のエンジンの寸法が変わり、そのエンジンを装備することになっても対応しやすい利点もあった。エンジンの大形化と推力の増加が進んだため、機体は大型化しており、これにより、武装は20mm機関砲3門から30mm機関砲4門に変更となり、燃料搭載量も増加して滞空時間も30分か1時間へと増しており、先行していたハインケルの[[He280]]を抑えて空軍にに採用される要因の一つとなった。
; エンジン
:搭載予定の[[BMW003]][[ジェットエンジン]]が大型化して当初の設計通りには配置できなくなり、解決策としてエンジン外側の主翼を後方に18.5度曲げて後退角を付け、エンジン設置位置も翼桁の間から主翼下に変更された。
 
1940年3月1日、航空省は3機の原型機を製作させる方針を決め、1940年5月15日に提出された設計案を承認して、原型機の製作が開始されたが、装備されるはずのBMW003エンジンの試作は遅れに遅れ、目標とする推力は700kgとしていたが、1940年8月の最初の試運転では150kgしか出せず、その後の改設計で1941年の夏には約450kgまで推力が増して[[Bf110]]戦闘機をテストベッドとして使用して空中テストが開始されたが、まだまだ問題が多かった。
;後退翼
:本機は最初から[[翼平面形#後退翼|後退翼機]]の実現を目的として設計された訳ではなく、度重なる設計変更の結果として後退翼に帰結した。浅い後退角は後述の重心位置改善のためで、後退翼としての効果は不十分である。
 
Me262の原型1号機であるMe262V1は完成していたが、BMW003エンジンは上記の理由で到着せず、仕方なく機首に2枚プロペラとそれを駆動する倒立V形の液令式のユモ210Gレシプロ・エンジンを装備して基本的な飛行特性をテストすることになり、1941年4月18日に初飛行した。水平最大速度は420km/hであったが操縦特性は良好であり、1940年11月には、ようやくBMW003エンジンが到着し、主翼の翼下に装備して、1942年3月25日にジェット・エンジンを使用しての初飛行を行ったが、離陸して高度50m程度で左側のエンジンが停止し、ついでに右側のエンジンが停止してしまい、機首のユモ210Gレシプロ・エンジンだけで飛行して無事に着陸した。原因はエンジンの圧縮機のブレードが破損して停止したことであり、再設計が必要と判断されため、計画はさらに遅れる結果となったが、1942年12月にBMW003よりも保守的な設計で1941年8月には推力600kgまで記録していたユンカースのユモ004エンジンを代替えとして使用することが決まり、Me262の原型3号機であるMe262V3にユモ004A-0が装備され1942年7月18日にジェット・エンジンだけの飛行に成功し、Me262の原型2号機であるMe262V2にもユモ004A-0が装備され、1942年10月1日に初飛行している。
; 胴体形状
:正面から見た形状は、楕円形から鉛直上向きの三角形に変更された。
 
その後の飛行により、機体がバンクを取ると主翼の内翼部の気流が剥がれることが分かり、外翼部に付けられていた後退角を内翼部にも付けて、この部分の主翼の翼弦長(主翼の長さ)を拡大するととに翼厚を増し、外翼部の前縁に取付けられていた前縁スラットを内翼部にも取付けることで解決しており、その結果、主翼の揚力が30%増す結果となった。また、前縁スラットは着陸速度を下げるのに役に立っていた。
; 武装
 
:20mm砲3門から30mm砲4門へ変更された。
ジェット・エンジンからのジェット排気が滑走路を舐めてしまうほか、離陸時に離陸滑走をに開始しても、水平尾翼が主翼の陰に入って昇降舵が効かないことが分かり、速度が190km/hに達した時点で主脚のブレーキを踏みこめば瞬時的に尾翼が持ち上がり、昇降舵が効くようになり、その時に離陸操作すれば良いと技術者が示唆していたが、これは誰も真似できるわけでもなく、空軍のレヒリン・テストセンターから来た空軍のパイロットがメッサーシュミットのテストパイロットからコツを教わって離陸しようとしたが、3回失敗したのち、滑走路から飛び出して主脚とエンジンがもぎ取られる事故を起こしており、Me262V5から着陸装置を尾輪式から前輪式に変更することで解決している。尾輪式への固執は前輪式が「アングロアメリカの発明品であるから」というナチ的イデオロギーに由来していた。
 
== 試作機 ==
[[ファイル:Junkers Jumo 004 (1941) used in Messerschmitt Me262 and Arado Ar234 at Flugausstellung Hermeskeil, pic1.JPG|thumb|300px|搭載されていたJumo 004ジェットエンジン。右側下部の空気取り入れ口の先頭に取付けられているものは、エンジン始動用のスターター。]]
; 試作1号機 Me 262 V1
:機体は[[1941年]]の初めに完成した。BMW 003が未完成だったため、[[ユンカース]]社製[[ユンカース ユモ 210|Jumo 210G]][[レシプロエンジン]]および[[プロペラ]]が機首に装備され、4月18日に試験飛行を行った。操縦性は極めて良好で、後にBMW 003が設置された後も、信頼性の高いJumo 210Gは機首に残された。
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:再設計された機体、着陸装置を油圧引込式の前輪式に変更、エンジン内側の主翼の後退角が増して、主翼の前縁には全幅に[[前縁スラット]]が追加された。
:1943年11月に完成し、同月26日には、ヒトラーの前でデモンストレーション飛行を行った。
 
:当初は尾輪式だった降着装置は試作5号機Me 262 V5からP.1065案同様の前輪式に変更された。尾輪式への固執は前輪式が「アングロアメリカの発明品であるから」というナチ的[[イデオロギー]]に由来していた。このため、ジェットエンジンからのジェット排気が滑走路をなめてしまうほか、離陸時に昇降舵が効かない問題点があった。また、離陸速度に達しても迎角が大きく離陸できず、ブレーキを軽く踏み込み機体を水平にする必要性が生じた。
:機体の調整は1942年中に完了したがJumo 004エンジンの信頼性は改善せず、量産後においても本機の欠点となった(後述)。
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ヒトラーは「電撃爆撃機が誕生した!」と宣言し、Me 262を高速[[爆撃機]]として生産するよう命じた。これはMe262の高高度での優位性を無視した指令であった。[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の大規模爆撃がドイツ各地に被害を与え、ヒトラーはそれらへの報復と、ヨーロッパ大陸への侵攻に備え集結していた連合軍への攻撃を考えていた。当時、世界の戦闘機の主任務用途は空対空戦闘から地滑り的に戦術支援への転移を生じており、ヒトラーはこの動向を認識していたという考察も存在する<ref>別冊歴史読本 『ヒトラー神話の復活』、新人物往来社、2000年、190頁</ref>。ゲーリングの回答は機種全体の開発計画推進を目的としたものだったが、戦闘機としての実戦投入を遅滞させる結果となった。
 
本機は、機首下面に1tまでの兵装を外部に搭載可能であったが、これにより、離陸距離が大幅に伸び、機体の重心位置が移動する問題があった。テストで500kg爆弾2個を機首下面の搭載して投下した際には、投下後に大きな機首上げモーメントが発生して、機首が約50°も上がり、投下するには後部の燃料タンクの燃料を使い切り重心を調整する必要があった。そのため爆撃任務はきわめて危険な任務となり、実戦では、その防止のため、250kg爆弾を2発しか搭載できず、爆撃照準器も装備していないため、爆撃機としては不満足なものであった。Me262の戦闘爆撃機型であるA-2a型は1944年8月末に北フランスにおいて作戦を開始し、その後[[バルジの戦い|アルデンヌ攻勢]]にも参戦したが、満足な戦果を上げていない、だが、戦闘爆撃機型は戦闘爆撃機部隊により敗戦まで細々と続けられた。
 
ガーランドはジェット機開発計画の初期段階である1942年春の会議ではMe 262を戦闘機とするか爆撃機とするか、一面的に開発を進めるべきではないと発言し、メッサーシュミット博士も同意見であったという。ガーランドはMe 262を本土防空用'''戦闘機'''と位置づけて編成を進めていた。1943年12月にはガーランドの主張により、ヒトラーは爆撃型の生産20機に1機支障がない範囲で割合で戦闘機型の生産テスト認めさせ許可して、それ1943年12月にガーランドにより、ジェット戦闘機の戦術を開発する目的の実験部隊編成を命令した。これにより、[[Me410]]を装備して、ドイツ本土を爆撃するB-17などの4発爆撃機の迎撃と夜間の英本土爆撃を任務としていた第51爆撃航空団(KG51)の第Ⅰ飛行隊を機種転換して、第3中隊の選抜パイロットが実験部隊で訓練を受けることになり、実験部隊の指揮官にはボルフガング・シュンク少佐が任命れ、実験部隊はシュンク実験隊またはE-51特別分遣隊と呼ばれた。1944年6月6日の連合軍の[[ノルマンディー上陸作戦]]が始まった時には、実験部隊の訓練はまだ未完状態であり、12名のパイロットが各人4時間程度の訓練を受けて作戦可能とし、7月20日に9機がフランスのシャトーダンに進出したが、その後の連合軍の進攻が早く、エタンプ、クレー、ジュビンクールと基地を移動しながら撤退していき、8月にはベルギのアティーシュープル、オランダのフォルケル、アイントホーフェンに基地を移動、9月にはドイツ本土に帰還するありさまで、ジュビンクールでセーヌ川沿いなどを目標に散発的な出撃を試みたものの、機密保持の理由で高度4000m以下での攻撃禁止と爆撃標準器なしでの攻撃のため効果はなかった。7月26日には、英空軍[[デ・ハビランド モスキート|モスキート]]を撃墜してジェット戦闘機初戦果を記録した。ているが(実際はモスキートの側面扉が風圧で破壊され、飛んで行ったものをMe262のパイロットが誤認しただけであった)その後ヒトラー8月28日に戦闘米軍の2み生産されていることをミルヒの報告から知って激怒し、[[1944年P-47]]5月23日の会議で、Me262を戦闘機と呼ぶ事を禁じ、爆撃型のみ生産させた(ただし1944年6月の会議の記録では、そに追わはジェット爆て胴体着陸して初機であるAr 234の生産が軌道に乗るまでの暫定的なものとされているしかしその後、実験部隊は米英空軍のドイツ本土爆撃がに帰還後に解隊れてKG51の第Ⅰ飛行隊激しくな併合されになりヒトラー、KG51の第Ⅰ飛行隊と第Ⅱ飛行隊爆撃Me262に型の生産を中止種転換して戦闘機型のみ生産、第Ⅰ飛行隊はライネ、第Ⅱ飛行隊はヘゼぺに展開するとともにKG51の指を出には中佐に進級したシュンクが就任して、9月下旬から、ベルギー・オランダにある英空軍基地・カナダ空軍基地や地上部隊を攻撃を開始している
 
ヒトラーは戦闘機型のみ生産されていることをミルヒの報告から知って激怒し、[[1944年]]5月23日の会議で、Me262を戦闘機と呼ぶ事を禁じ、爆撃型のみ生産させた(ただし1944年6月の会議の記録では、それはジェット爆撃機であるAr 234の生産が軌道に乗るまでの暫定的なものとされている)。しかし、米英空軍のドイツ本土爆撃がさらに激しくなり、石油施設が狙われて石油生産やストックが落ち込み、燃料不足が深刻になり訓練部隊はもとより実戦部隊までもが出撃に制限が加わるようになりはじめ、さすがのヒトラーも1944年8月30日に20機に1機の割合で戦闘機型の生産を認める生産許可を出した。
戦闘機型のA-1a型は、1944年8月から空軍に引渡しが開始された。9月には、[[ヴァルター・ノヴォトニー]]少佐を隊長としたMe262の実戦部隊「コマンド・ノヴォトニー」が編成され、10月から作戦を開始した。同部隊は米英空軍爆撃機を迎撃し戦果を上げたが、11月18日には、隊長であるノヴォトニー少佐が、同部隊を視察に訪れたガーランドの眼前で撃墜され戦死してしまう。その後、同部隊は第3戦闘航空団(JG3)と第54戦闘航空団(JG54)との間で再編され第7戦闘航空団(JG7)となり、同年11月からは、夜間レーダーのFuG218ネプトゥーンレーダーを装備した複座夜間戦闘機型のB-1a/U1を装備した部隊「コマンド・シュタンプ」が作戦を開始している。空軍上層部との対立が激しくなったガーランドは後に戦闘機隊総監の地位を解任されたが、大戦末期の[[1945年]]1月にはMe262が優先的に配備された[[第44戦闘団]](JV44)を編成してその司令官となり、メッサーシュミット社の故郷であるバイエルン州を中心に作戦を開始している。
 
戦闘機型のA-1a型は、1944年8月から空軍に引渡しが開始された。9月25日には、実験部隊を基本とした[[ヴァルター・ノヴォトニー]]少佐を隊長としたMe262の実戦部隊「コマンド・ノヴォトニー」が編成され、9月29日には2個中隊に分かれ、ドイツ北西部のアハマーとヘゼベに展開して約30機を装備して、10月から作戦を開始した。同部隊はアメリカの第8航空軍爆撃隊の護衛戦闘機の迎撃を目的としており、爆撃隊の爆撃機の迎撃にはレシプロ戦闘機で対処する目論であった。しかし、エンジンの脆弱や燃料不足によるパイロットの訓練不足からの故障や事故が多く、本機の弱点である離陸時に攻撃されて撃墜されたりしたため、飛行場直衛のレシプロ戦闘機隊を配備するなどしたが、11月8日には、隊長であるノヴォトニー少佐が、同部隊を視察に訪れたガーランドの眼前で撃墜され戦死してしまう。その後、同部隊はヒフェルトに後退させて訓練に戻ったが、戦果は撃墜22、不確実4に対して装備された30機中26機を失っている。
 
ノヴォトニー少佐の戦死の少し前の11月4日にヒトラーは全面的に戦闘機型の生産を認め、「コマンド・ノヴォトニー」部隊は第3戦闘航空団(JG3)と第54戦闘航空団(JG54)との間で再編され、初のMe262戦闘機航空団である第7戦闘航空団(JG7)の第Ⅲ飛行隊となり、ブランデンブルクに基地を移動して作戦を開始しているが、戦死したノヴォトニー少佐を偲んで部隊名を「ノヴォトニー」としている。また、連合軍の制空権下では従来のレシプロ爆撃機では作戦行動はほぼ不可能となったため、解隊された爆撃航空団のパイロットをMe262の戦闘機隊のパイロットとして活用すべく、爆撃航空団の再編成が始まり、11月末に第54爆撃航空団(KG54)が第54爆撃航空団の戦闘機部隊(KG(J)54)となり、第Ⅰ飛行隊が中部ドイツのビュルツブルグに近いベルシュタットを基地としている。その後も第6・27・55の3つの爆撃航空団をMe262の戦闘機隊に改変する予定であったが、1945年4月に第6爆撃航空団のみ作戦可能となっただけであった。
 
1944年末には、Me262を夜間戦闘機として使用する飛行隊が編成され、夜戦のエースであったクルト・ベルダー中尉を隊長としたベルダー隊、敵爆撃機を上空から爆撃する実験を担当する、ハルト・シュタンプ少佐を隊長としたシュタンプ隊、Me262にカメラを装備して偵察機として使用する、ヘルワルト・ブラウェク中尉のブラウェク隊が編成されたが、ベルダー隊は、1945年2月末に第11夜間戦闘航空団(NJG11)の第10飛行隊に編入された。装備された機数は常時4機であり、単座戦闘機型の機首にFuG218ネプトゥーンレーダーを装備した実験機Me262V56と同じく機首にFuG218を装備した複座夜間戦闘機型のMe262B-1a/U1を装備を装備して使用していたが、レーダーなしの単座昼間戦闘機型も併用され、ベルリン西方のブルク基地から首都ベルリンの防空戦に出撃して、出撃160回、約45機の撃墜を記録している。シュタンプ隊は1944年12月から時限信管を付けた爆弾を敵爆撃機編隊上空から20°の緩降下でからその爆弾を投下して炸裂させて敵爆撃機を撃墜する実験を開始したが、ツアイス社製の照準器を試用したり、時限信管を2秒と設定したりしたが、結論が出ない実験となり、1945年3月に隊は解隊されている。ブラウェク隊は近距離偵察グループのNAG6の第Ⅱ飛行中隊に配属され、終戦まで任務に付いていたが、装備した機数が5-6機と少なく、本来の写真偵察型のMe262-1a/U3やA-4aさらに少なく、単座昼間戦闘機型が多く配備され、これを使用した偵察任務が行われている。
 
空軍上層部との対立が激しくなったガーランドは後に戦闘機隊総監の地位を解任されたが、大戦末期の[[1945年]]1月にはMe262が優先的に配備された[[第44戦闘団]](JV44)を編成してその司令官となり、メッサーシュミット社の故郷であるバイエルン州を中心に作戦を開始している。
== 兵装 ==
;機関砲
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== 利点 ==
; 優れた速度・上昇力と高高度における一方的優位性
:想定上の戦域では性能を十分に発揮することができた。高度6,000mでの水平飛行で870km/h、緩降下においては900km/h以上の飛行速度は同時代の[[航空機]]より150km/h以上も速かった。これは、当時アメリカやイギリスで登場した同じ[[第1世代ジェット戦闘機]]の[[P-59 (航空機)|P-59]]や[[グロスター ミーティア]]に比べて勝り、戦後世代であるアメリカの[[F-80 (戦闘機)|P-80]]に匹敵した。これは、主翼の翼面積が21.7㎡と小さく(P-80はは22.1㎡)、よって[[翼面荷重]]が大きいこと、主翼の厚さが薄く、その目安である翼厚比は11%(P-80は13.5%)であり、高速を追求した設計であった。上昇率では、初期上昇率は20m/secとレシプロ戦闘機と大差をつけるほどではないが、高度が高くなっても上昇率がさほど低下せず、6000mで11m/sec、9000mで5.5m/secの上昇率が得られている。戦後にエンジンが同じ推力を持つミーティアF.3と比較試験をしたときも、Me262の方が32km/hも早い結果が出ており、P-80との比較試験では、Me262が速度と加速性で勝り、上昇性能ではほぼ同等との結果が出ている
 
:当時の空戦では速度が敵機より30km/h速いだけで一方的に優位を維持できたが、[[アメリカ陸軍航空隊]]が爆撃機護衛の主力としていた[[P-51 (航空機)|P-51D]]は最高でも708 km/hであり、追従すら難しかった。
:[[フランス空軍]]の[[エース・パイロット]]として知られる[[ピエール・クロステルマン]]は、片方のエンジンが停止したMe262を[[ホーカー テンペスト|テンペスト]]で追跡したが、まったく追いつけなかったと語っている。<!--{{要出典範囲|date=2013年8月|Me262で飛行中に嵐に巻き込まれた際、偶発的に音速を超えて飛行したと主張するパイロットすら現れた。}}--->
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== 欠点 ==
; エンジンの信頼性の低さ
:ジェットエンジン黎明期であり、特に過酷な運用が求められる戦闘機向けの導入は時期尚早だった。性能と信頼性の両面にわたって多数の技術的課題が未解決のまま残され、Me262の欠陥となった。エンジンの[[スロットル]]に対する応答性が悪いため、操縦席のスロットル・レバーによる急激なスロットル操作で、高高度ではエンジン内の燃焼室で[[フレームアウト|フレームアウト(燃焼停止]])が発生してエンジンが停止することがあった。また、エンジン故障率が高く、事故喪失が多かった。
:エンジン寿命は最大で70時間、実運用では平均25~30時間で、戦闘中の片方または両方のエンジン故障が頻発した。戦闘で破壊されるよりも耐用時間を超えて稼動不能となる機体の方が遥かに多かった。離陸時に大きな推力を得るためにスロットル・レバーを開き、燃料を過大燃焼させても機体を劇的に加速させることはできず、その状態ではエンジン内の燃焼室が熱で溶け大きく損傷した。離陸後も上昇性能に乏しく、高度を獲得するために時間を必要とした。
:これらの欠点は機動性と加速性の悪化に繋がり、事実上[[ドッグファイト]]は不可能となった。また、離陸直後は速度が出ていないため敵を振り切ることも出来なかった。このためアメリカ軍の護衛戦闘機は、接近中のMe262を発見した場合は護衛対象の爆撃機から離れて早期に攻撃するという戦術に切り替えた。これにより多数の被害が発生した。
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:二人乗りの訓練機
:;B-1a/U1
::夜間戦闘機型。機首にFuG218ネプトゥーンレーダーを装備、装備したレーダーアンテナの抵抗で最大速度が60km/h低下して810km/hとなっている。
;B-2
:胴体を伸ばした夜間戦闘機型