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「この地から西に約2キロのところに、奈良時代の僧・行基が建立したとされる広渡寺があった。この広渡寺が浄土寺の前身寺院とされる。荒廃していた広渡寺を浄土寺として復興させた」等の文章の追加と校正。
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[[File:Jôdo-ji Jôdodô.jpg|thumb|none|200px|浄土堂平面図]]
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'''浄土寺'''(じょうどじ)は、[[兵庫県]][[小野市]][[浄谷町]]にある[[高野山真言宗]]の[[寺院]]。山号を極楽山と称する。本尊は[[薬師如来]]と[[阿弥陀如来]]、開山は[[重源]]で、[[建久]]5間(([[11901194年]]~[[1198年]]))の創建である。多数の文化財を所有する古刹として知られ、[[大仏様]]建築の浄土堂と仏師[[快慶]]の大作「[[阿弥陀三尊]]像」は特に著名である。
 
== 起源概要 ==
浄土寺建つから西に約2キロのところ[[奈良時代]]の僧・[[行基]]建立した前身とされる広渡があった。この広渡寺が浄土寺の前身寺院も言われるが、。荒廃していた広渡寺を浄土寺として復興させた実質的な開山は、[[平安時代]]末~[[鎌倉時代]]の僧で、[[東大寺]][[東寺盧舎那像|大仏]][[大仏殿]]鎌倉復興に尽力した重源である。[[治承]]4年([[1180年]])、[[平重衡]]の軍勢による[[南都焼討]]で、東大寺、[[興福寺]]は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた。この大仏・大仏殿の再興の[[大勧進]](総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった。重源は大仏再興事業の拠点として、[[伊賀国|伊賀]]([[三重県]])、[[周防国|周防]]([[山口県]])など日本の7か所に東大寺の「別所」を造った。七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である。浄土寺の所在地は当時の地名を[[播磨国]][[大部荘]](おおべのしょう)といい、東大寺領であった。
 
境内には池を中心にして、西に重源当時の建築である浄土堂(阿弥陀堂)、東に[[室町時代]][[永正]]14年([[1517年]])に再建された薬師堂(本堂)が建つ。この配置は偶然ではなく、東方浄瑠璃世界の教主・[[薬師如来]]と西方[[極楽浄土]]の教主・[[阿弥陀如来]]の居所を意味している。
 
==浄土堂==
浄土寺浄土堂(「阿弥陀堂」とも言う)は重源によって建てられたもので、本尊として[[快慶]]作の[[阿弥陀三尊]]の巨像を安置する。堂は[[建久]]5年([[1194年]])に上棟し、同8年([[1197年]])に完成供養を行ったと記録されている。渡宋経験のあった重源は、大仏殿をはじめとする東大寺諸堂の復興や各地の別所寺院の建築に際し、当時の[[中国]]([[宋 (王朝)|宋]])の最新式の建築様式を採用した。これが現代において大仏様(かつては天竺様とも呼んだ)と呼ばれる建築様式で、鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えたが、重源が手がけた大仏様建築で現存するものは他に東大寺南大門と同寺開山堂のみである。<!--[[鎌倉時代]]初期創建時の姿をとどめている。昭和32年の解体修理において蔀戸が発見され、光の反射を計算して設計された堂であることが確認された。(「蔀戸が発見され」だけでは一般読者に意味が通じないと思われるためカットします-->
 
堂は方三間〈正面・側面とも1辺に柱が4本立ち、柱間が3つあるという意味)の単純な平面構成になるが、1つの柱間が約6メートルもあり、内部空間は広大である。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり、四角錐状の屋根形)、本瓦葺きで、平面の大きさの割に立ちが低いことと、屋根の形づくる線にほとんど反りがなく直線的であることが特色である。比較的地味な外観に比し、堂内部は[[貫 (建築)|貫(ぬき)]]、梁(はり)などの構造材をそのまま見せたダイナミックな構成になっている。天井を張らず、屋根裏に空間をつくらず、構造材をそのまま見せて装飾を兼ねていること、貫(複数の柱を貫通する水平材)を多用することなどが大仏様建築の特色である。
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=== 安藤忠雄に影響 ===
[[安藤忠雄]]による設計で[[1991年]]([[平成]]3年)に竣工した兵庫県[[淡路市]]にある[[真言密教]]の[[寺院]]で[[真言宗]][[御室派]]の別格本山である[[本福寺 (淡路市)|本福寺]]本堂の水御堂は、西から入る光が極楽浄土を現出させるこの浄土寺での重源の手法を踏襲したものである<ref name="kishi"></ref>。
 
==伽藍==
[[ファイル:City Museum Ono Hyogo08s3200.jpg|thumb|150px|伽藍の模型([[小野市立好古館]])。手前が本堂、奥が浄土堂]]
*浄土堂([[国宝]])― [[1194年]](建久]]5年([[1194年]])上棟、宝形造、本瓦葺、化粧屋根裏、背面蔀戸
*薬師堂([[重要文化財]])― 建久8年([[1197年]](建久8年)創建とされ、現在のものは焼失後の[[1517年]](永正]]14年([[1517年]])築、宝形造、本瓦葺
*鎮守八幡神社拝殿・本殿(重要文化財)― [[文暦]]2年([[1235年]]創建、室町時代中期再建
*開山堂― 創建不明、現在のものは焼失後の[[永正]]17年([[1520年]]築、宝形造、本瓦葺 [[兵庫県指定文化財一覧|県指定文化財]]
*鐘楼堂― 創建不明、現在のものは[[寛永]]9年([[1632年]]築、入母屋造 本瓦葺 鐘楼(県指定文化財)
*不動堂
*文殊堂
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*宝持院
*歓喜院
*東山[[四国八十八ヵ所]]― 江戸時代後期(文化・文政)頃のもの
 
<gallery>
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===国宝===
*浄土堂
*木造阿弥陀如来及び両脇侍立像― 建久6年([[1195年]](建久6年)、快慶作、阿弥陀如来像高:530cm 両脇侍像高:370cm
 
===重要文化財===
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*八幡神社拝殿
*八幡神社本殿
*木造阿弥陀如来立像 - [[建仁]]元年([[1201年]]、快慶作、像高:266.5cm 来迎会(練り供養)用の仏像で、上半身裸形に作り、行事の際は実物の衣を着せた。([[奈良国立博物館]]に寄託)
*木造重源坐像 - [[1234年]](天福]]2年([[1234年]])以前、像高:81.2cm
*木造菩薩面 25面、鎌倉時代、快慶工房作。来迎会用の仮面。
*銅製鉦鼓 - 「東大寺末寺播磨浄土堂、建久五年(1194)十月十二日」の刻銘
*銅製五輪塔 - 建久5年([[1194年]]
*黒漆蝶形三足卓 2基 - 鎌倉時代初頭
*絹本著色仏涅槃図 - 鎌倉時代