「ウラジーミル1世」の版間の差分

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| 配偶者9 =
| 配偶者10 =
| 子女 = [[スヴャトポルク1世]]<br>[[ヤロスラフ1世]]<br>[[ボリスとグレブ]]など他多数
| 王家 =
| 王朝 = [[リューリク朝]]
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[[ファイル:1000 Vladimir 2.jpg|right|170px|thumb|ノヴゴロドにある[[ロシア建国一千年祭記念碑像|ロシア1000年記念碑]]の銅像。[[八端十字架]]を掲げている。]]
'''ウラジーミル1世'''({{lang-ru|Владимир Святославич}})、'''ヴォロディーミル1世'''({{lang-orv|Володимѣръ Свѧтославичь}}、{{lang-uk|Володимир Святославич}})[[955年]]頃 - [[1015年]][[7月15日]])は、[[リューリク朝]]、[[キエフ大公国]]の[[キエフ大公]](在位:[[978年]][[6月11日]] - [[1015年]][[7月15日]])。[[スヴャトスラフ1世]]と彼の母、[[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]]の鍵番マルーシャとの間の子。子は[[ヤロスラフ1世]]や[[ボリスとグレブ|ボリスとグレプ]]の他多数いる。キエフ大公国を[[キリスト教]]化した。[[キリスト教]]([[正教会]]・[[カトリック教会]]・[[聖公会]]・[[ルーテル教会]])の[[聖人]]で、[[亜使徒]]・聖公ウラジーミルと呼ばれる。祭日は[[7月15日]]([[7月28日]])。「太公」、「聖公」、「赤日」とも呼ばれる。
 
== 前半生 ==
955年頃、キエフ大公・[[スヴャトスラフ1世]]と彼の母、[[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]]の鍵番マルーシャとの間に生まれた。正嫡の兄として、長兄[[ヤロポルク1世]]と次兄オレーグがいた。
父スヴャトスラフ1世存命中から[[ノヴゴロド公]]に任じられていた。これは、後継者として目されていたためであろう。そして父の死後の[[975年]]に長兄[[ヤロポルク1世|ヤロポルク]]が次兄オレーグと争い、殺害にいたると<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p73]]</ref>、[[977年]]ウラジーミルは[[スカンディナビア]]へ逃亡した。37歳の時<ref>『ルーシ年代記』. 6360年 (852).</ref>、[[ノルマン人]]([[ヴァリャーグ]])人を率いて帰還、ヤロポルクを破り、[[キエフ大公]]として即位した。『[[ルーシ年代記]]』による即位年は[[980年]]であるが、11世紀後半の書『{{lang|uk|[[:uk:Пам'ять і похвала князю Володимиру|Память и похвала князю русскому Володимиру]]}}』によると、[[978年]]となっている<ref>[http://www.golubinski.ru/history/pohvala.html ''Память и похвала князю русскому Володимиру, како крестися Володимир и дети своя крести и всю землю Рускую''], ПВЛ. Год 6360 (852).</ref>。ウラジーミル1世が37歳になったのは[[978年]]であるため、[[980年]]説は成立しない。しかし、多くの書物では[[980年]]説は定説となっている。
 
ウラジーミルは、父スヴャトスラフ1世存命中から[[ノヴゴロド公]]に任じられていた。これは、後継者として目されていたためであろう。そして父の死後の[[975年]]に長兄[[ヤロポルク1世|ヤロポルク]]次兄オレーグと争い、殺害にいたると<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p73]]</ref>、[[977年]]ウラジーミルは[[スカンディナビア]]へ逃亡した。37歳の時<ref>『ルーシ年代記』. 6360年 (852).</ref>、[[ノルマン人]]([[ヴァリャーグ]])人を率いて帰還、ヤロポルクを破り、[[キエフ大公]]として即位した。『[[ルーシ年代記]]』による即位年は[[980年]]であるが、11世紀後半の書『{{lang|uk|[[:uk:Пам'ять і похвала князю Володимиру|Память и похвала князю русскому Володимиру]]}}』によると、[[978年]]となっている<ref>[http://www.golubinski.ru/history/pohvala.html ''Память и похвала князю русскому Володимиру, како крестися Володимир и дети своя крести и всю землю Рускую''], ПВЛ. Год 6360 (852).</ref>。ウラジーミル1世が37歳になったのは[[978年]]であるため、[[980年]]説は成立しない。しかし、多くの書物では[[980年]]説は定説となっている。
キエフ進撃の途上で、[[ポロツク公国]]を滅ぼし、自身を「奴隷の子」と呼んで侮辱した公女[[ログネダ・ログヴォロドヴナ|ログネダ]]を略奪して妻とした<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p74]]</ref>。さらに南方や北東地域にも進出してキエフ大公国の領土を父の代から倍増させた。981年に[[ヴャチチ族]]、984年に[[ラヂミチ族]]を従属させた<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p75]]</ref>。また、彼の息子たちを大公国の各地に配置し、土着の勢力を抑えた。モスクワの東に位置する[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]の町やヴォルィニ地方のウラジーミルは彼が建設したとされる{{要出典|date=2011年12月}}。
 
キエフ進撃の途上で、他のヴァリャーグ系の国家である[[ポロツク公国]]を滅ぼし、公ログヴォロドと息子たちを殺害した上、かつて自身を「奴隷の子」と呼んで侮辱した公女[[ログネダ・ログヴォロドヴナ|ログネダ]]を略奪して妻とした<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p74]]</ref>。さらに南方や北東地域にも進出してキエフ大公国の領土を父の代から倍増させた。981年に[[ヴャチチ族]]、984年に[[ラヂミチ族]]を従属させた<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p75]]</ref>。また、彼の息子たちを大公国の各地に配置し、土着の勢力を抑えた。モスクワの東に位置する[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]の町やヴォルィニ地方のウラジーミルは彼が建設したとされる{{要出典|date=2011年12月}}。
 
[[内政]]においては、ノルマン系の[[ルーシ族]]の植民を奨励する一方で{{要出典|date=2011年12月}}、980年頃、[[ルーシ]]に伝統的な異教信仰を基盤に据えた国制改革を行ったとされる。伝統的なルーシの異教信仰に近隣諸民族の神を加えた大規模な祭祀を行ったが失敗した。こうして、数年後の[[キリスト教]]導入に至る。[[987年]]に10人の家来たちに各宗教を調査させた報告を聞き、また祖母オリガの[[洗礼]]に続き、[[988年]]に彼も洗礼を受けた。そして異教の[[偶像破壊|偶像を破壊]]するよう命じた<ref>[[黒川知文]]『ロシア・キリスト教史』[[教文館]]</ref>。
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== キリスト教導入後 ==
 
[[988年]]には[[キリスト教]]を国教として導入、加えて[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[バシレイオス2世]]の妹[[アンナ (キエフ大公妃)|アンナ]]と結婚し<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p76]]</ref>、キエフ大公国の権威を上昇させると共に、当時最先端であった[[ビザンツ文化]]を取り入れるなど、優れた手腕を見せた。ウラジーミルは[[ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたち|12人の息子]]をキエフ大公国の各地に封じて土着の勢力を抑えた。近隣との関係はおおむね平穏であったが、南方ステップ地帯の遊牧民である[[ペチェネグ人]]には悩まされた。アンナの死後、ウラジーミルは再婚した。相手は[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]の孫娘のひとりであったとする説がある。晩年には、税の支払ノヴゴロド公に任じてを拒否した息子[[ヤロスラフ1世]]がキエフへの税の支払いを拒否したため対立し、これを討つための準備中にキエフ近郊の[[ベレストヴェ|ベレストヴォ]]で死去した(1015年)。
 
ウラジーミルの遺体は、分割され、彼が建てたさまざまな[[教会]]に送られて[[不朽体]]([[聖遺物]])として崇敬を受けた。キエフの最も[[聖ヴォロディームィル大聖堂|大きな大聖堂のひとつ(聖ヴォロディームィル大聖堂)]]がウラジーミルに捧げられた。ウラジーミルへの崇敬はルーシの伝統となった。19世紀には[[ウクライナ]]における[[キエフ大学]]の正式名称は、キエフ・ルーシに文明とキリスト教をもたらした人物としてウラジーミルの名称を冠している。[[ロシア帝国]]では[[聖ウラジーミル勲章]]が設けられた。ウラジーミルは[[正教会]]から13世紀に列聖され<ref>[http://ruhistory.narod.ru/history/tsar/vlad1.html Vladimir I Svjatoslavich (? - 1015)]</ref>、[[カトリック教会]]でも[[聖人]]として崇敬されている。[[政治]]・[[軍事]]ともに大きな成果を収めたウラジーミル1世の功績は、民族叙事詩である「[[ブィリーナ]]」で、また修道士ヤコフ・ムニフの『頌詞』のなかで賞賛されている。彼と共に、東スラブにおけるヴァリャーグ人時代は終わり、キリスト教時代が始まった。