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== 生涯 ==
[[蕭エイ|蕭璿]]の子として曲阿郡武進県(現在の[[江蘇省]][[常州市]][[武進区
[[大業]]13年([[617年]])、岳州校尉の[[董景珍]]・[[雷世猛]]、旅帥の[[鄭文秀]]・[[許玄徹]]・[[万瓚]]・[[徐徳基]]・[[郭華]]、沔陽の人の[[張繍 (隋)|張繍]]らが隋に叛くことを計画して、董景珍を主として推挙した。董景珍は、蕭銑が寛仁大度で[[梁 (南朝)|梁]]の[[蕭衍|武帝]]の威風があり、蕭氏の中興が反隋の旗印としてふさわしいとして、蕭銑を擁立した。蕭銑は梁公を称し、[[沈柳生]]を斬ると梁王を称して、[[鳳鳴]]と[[元号]]を立てた。
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鳳鳴4年([[620年]])、唐の趙郡王[[李孝恭]]の攻撃を受けて通州・開州を奪われ、東平王[[蕭闍提]]を斬られた。蕭銑の梁の諸将は兵権を専断し、蕭銑は抑制することができなかった。董景珍の弟が将軍となり乱を謀ったが、事前に漏れて処刑された。蕭銑は董景珍を長沙から江陵に召還しようとしたが、恐れた董景珍は李孝恭に降った。蕭銑は張繍を派遣して董景珍を攻めさせ、董景珍は潰走して部下に殺された。蕭銑は張繍を尚書令としたが、張繍は功をたのんで驕慢となったため、蕭銑は張繍も処刑した。蕭銑は外面は寛容だったが、その内心は猜疑心深く、成功者を妬んだので、大臣や将軍たちの多くは叛き去り、蕭銑の梁は弱体化した。
鳳鳴5年([[621年]])、唐の李孝恭と[[李靖]]が[[
降伏した蕭銑は「死すべき者は銑のみで、百姓に罪はない。殺掠しないでいただきたい」と李孝恭に言った。[[長安]]に護送された蕭銑を高祖[[李淵]]は責めたが、蕭銑は「隋がその鹿を失い、英雄が競いあった。銑には天命がなかったために、陛下の虜となった。[[田横]]が南面して、[[前漢|漢]]に仕えるようなことがあろうか」と答えた。高祖は蕭銑が屈服しないのを怒って長安の市で斬らせた。
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