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'''平田 篤胤'''(ひらた あつたね、[[安永]]5年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]([[1776年]][[10月6日]]) - [[天保]]14年[[閏]][[9月11日 (旧暦)|9月11日]]([[1843年]][[11月2日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[国学者]]・[[神道家]]・[[思想家]]・[[医者]]。[[出羽国]][[久保田藩]](現在の[[秋田県]][[秋田市]])出身。成人後、[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]]士の兵学者[[平田篤穏]]の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは'''胤行'''、享和年間以降は篤胤と称した。号は'''気吹舎'''(いぶきのや)、家號を'''真菅乃屋'''(ますげのや)。'''大角'''(だいかく)または'''大壑'''(だいかく)とも号した。医者としては'''玄琢'''(のちに'''玄瑞'''を使う。死後、'''神霊能真柱大人'''(かむたまのみはしらのうし)の名を[[白川家]]より贈られている。
 
[[復古神道]]([[古道]]学)の大成者であり、[[大国隆正]]によって[[荷田春満]]、[[賀茂真淵]]、[[本居宣長]]とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。
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[[ファイル:Shizunoiwaya(1811)AtsutaneHirata.jpg|thumb|290px|right|平田篤胤『志都能石屋(しづのいわや)』1811年、江戸気吹舎刊]]
文化3年([[1806年]])より真菅乃屋では私塾として門人を取っている(のちに「[[気吹舎]]」に改称)<ref name=tahara1060/>。門人ははじめ3人であったが、最後には553人に達した<ref name=tahara1060/>。ほかに、篤胤没後の門人」と称した人が1,330人にのぼった<ref name=tahara1060/>。文化4年([[1807年]])以降は医業を兼ね玄瑞とも名乗っ改めた。
 
文化8年([[1811年]])頃までおこなった篤胤の[[講義]]は、門人筆記というかたちでまとめられ、『[[古道大意]]』『出定笑語』『西籍慨論』『志都の石屋(医道大意)』などの題名でのちに書籍として刊行されることとなるが、この時点では宣長の学説の影響が大きく、篤胤独自の見解はまだ充分にすがたをあらわしていない<ref name=tahara1060/>。
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文政2年([[1819年]])、2度目の東総遊歴をおこなった。最初の訪問地以外にも[[八日市場市|八日市場]]・富田・[[東金市|東金]]・本納・一の宮などを巡り、篤胤はこの遊歴の中で、のちに著作としてまとめられることとなる『玉襷(たまだすき)』や『古道大意』を講釈し、門人獲得を精力的におこなった<ref name=rekihaku/>。農政家・国学者として知られる[[宮負定雄]]の父定賢はじめ多くの豪農・神職がこのとき入門している(定雄自身も文政9年に入門)。
 
この時期の篤胤は、平田学の核心となる諸書の著述や刊行を進めると同時に幽界研究に大きな関心を払った。幽界に往来したと称する少年や別人に生まれ変わったという者の言葉を信じ、そこから直接幽界の事情を著述している
 
文政3年([[1820年]])秋、江戸では天狗小僧寅吉の出現が話題となった。発端は江戸の豪商で随筆家でもある[[山崎美成]]のもとに寅吉が寄食したことにある。寅吉によれば、かれは神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。篤胤はかねてから幽冥界に強い関心をいだいていたため、山崎の家を訪問し、この天狗少年を養子として迎え入れた<ref group="注釈">篤胤は、文政3年から文政12年(1829年)までの9年間、寅吉を保護している。篤胤は少年を利用して自分の都合のいいように証言させているに違いないという批判もあったが、篤胤自身はきわめて真剣で、寅吉が神仙界に戻ると言ったときには、神仙界の者に宛てて教えを乞う書簡を持たせたりもしている。</ref>。篤胤は、寅吉から聞き出した幽冥界のようすを、文政5年([[1822年]])、『[[仙境異聞]]』として出版している<ref name=tahara1060/>。これにつづく『勝五郎再生記聞』(文政6年刊行)は、死んで生まれ変わったという武蔵国[[多摩郡]]の農民[[小谷田勝五郎]]からの聞き書きである<ref name=tahara1060/>。幽なる世界についての考究には、他に、『幽郷眞語』『古今妖魅考』『[[稲生物怪録]]』などがあり、妖怪俗談を集めた『新鬼人論』(文政3年成立)では民俗学的方向を示し、のちに柳田國男や折口信夫らの継承するところとなった<ref name=suzuki692/>。
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[[天保]]2年([[1831年]])以降の篤胤は、[[暦日]]や[[易学]]に傾倒した<ref name=koyasu1/>。『春秋命暦序考』『三暦由来記』『弘仁暦運記考』『太皞古易伝』などの著作がある。上述のインド学・シナ学、そして[[暦学]]や易学の研究の芽は、いずれも『霊能真柱』のうちに胚胎していたものであった<ref name=tahara1060/><ref name=koyasu1/>。さらに、古史本辞経(五十音義訣)や[[神代文字]]など、[[言語]]や[[文字]]の起源も研究対象とした。
 
天保5年([[1834年]])、篤胤は水戸の史館への採用を願ったが成功しなかった<ref name=tahara1060/>。天保8年([[1837年]])、[[[[天保の大飢饉]]のなか、かつての塾頭[[生田万]]が[[越後国]][[柏崎市|柏崎]]で蜂起して敗死している([[生田万の乱]])。天保9年([[1838年]])、故郷久保田藩への帰参が認められた。また、この頃から篤胤の実践的な学問は地方の好学者に強く歓迎されるようになり、門人の数も大幅に増加した<ref name=jinmei475/>。しかし、
 
天保12年([[1841年]])[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]、[[江戸幕府]]の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府に著述差し止めと国許帰還(江戸追放)を命じられた<ref name=jinmei475/>。激しい儒教否定と尊王主義が忌避されたとも、尺座設立の運動にかかわったためともいわれる<ref name=jinmei475/><ref name=tahara1060/>。同年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]、秋田に帰着し、[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]、久保田藩より15人扶持と給金10両を受け、再び久保田藩士となった<ref name=jinmei475/><ref name=tahara1060/>。江戸の平田塾[[気吹舎]]の運営は養子の平田銕胤に委ねられた。
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篤胤は、一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している<ref name=rekihaku/>。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも関係していると思われる。特に[[伊那谷|伊那]]の平田学派の存在は有名である<ref name=rekihaku/><ref name=katurajima74/>。後に[[島崎藤村]]は小説『[[夜明け前]]』で平田学派について詳細に述べている。倒幕がなった後、[[明治維新]]期には平田派の神道家は大きな影響力を持ったが、神道を国家統制下におく[[国家神道]]の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。
 
=== 民族宗教の体系化 ===
書籍によって[[自然科学]]や[[世界地誌]]を深く学んだ平田篤胤は、自己に対する他者を中国から西洋に転換した当時の知識人のなかの一人であった<ref name=miyaji28/>。かれは、天主教的天地創造神話を強く意識しながら、[[天御中主神]]を創造主とする、きわめて首尾一貫した[[復古神道]]神学を樹立した<ref name=miyaji28/>。
 
復古神道では、日本の「[[国産み]]」においてこそ天地創造がおこなわれる。日本は「よろずの国の本つ御柱(みはしら)たる御国(みくに)にして、万の物、万の事の万の国にすぐれたるものといわれ、また掛(かけ)まくも畏(かしこ)き我が天皇命(すめらみこと)は万の国の大君(おおきみ)にましますこと」が自明のこととして主張される<ref name=miyaji28/>。こうした[[民族宗教]]としての神道の体系化は、「[[世界の一体化]]」の過程において、[[儒教]]的な東アジア知的共同体からの日本の離脱を意味するものであって、反面、せまりくるウェスタンインパクト(西洋の衝撃)に対する日本単独の態度表明でもあった<ref name=miyaji28/>。
 
「よろずの国の本つ御柱」たる日本の位置づけは、当時にあっては、何故西洋諸国が日本に交易を求めてくるのかの説明に用いられ、日本が「中つ国」「うまし国」であることは、日本が物産豊かに自足し、他国との交易を必ずしも必要としていないという事実(あるいは事実認識)がこれを補強した<ref name=miyaji28/>。
 
篤胤は、村落の氏神社への信仰や祖先崇拝といった、従来、日常レベルで慣れ親しんできた信仰に、記紀神話の再編にもとづくスケールの大きい宇宙論を結びつけ、さらに幽冥界での死後安心の世界を提示した<ref name=katurajima74/>。宇宙論から導かれる神々の秩序やそのなかに整然と位置づけられる氏神社、永遠の魂の安全といった教義は、それまで深く意識することもなく受け入れてきた村落の神社のすがたを一変させるような強烈な印象を、村落指導者にあたえたものと考えられる<ref name=katurajima74/>。
 
=== 幽冥論 ===