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[[ドルドレヒト]]市長として六選された[[ヤコブ・デ・ウィット]]を父として、ドルドレヒトの名門デ・ウィット家に生まれた。[[ライデン大学]]で学び、数学や法律学に頭角を現した。1645年に兄のコルネリスとともに、フランス、イタリア、スイス、イギリスなどに外遊し、帰国後はハーグで[[弁護士]]として活動した。[[1650年]]に25歳でドルドレヒト市長に選出され、[[1653年]][[7月23日]]に28歳でホラント州の法律顧問に選出され、以後1668年まで5年ごとに再選された。ホラント州の法律顧問の地位は、[[無総督時代]]のネーデルラント連邦共和国において事実上、政権の最高指導者であった。
ヨハン・デ・ウィットは、第一次英蘭戦争の終戦条件として[[1654年]][[4月5日]]に締結されたウェストミンスター条約の批准を推進した。この条約で、オランダは護国卿政[[イングランド]]の[[航海条例]]を承認するなど、大幅な譲歩を行うこととなったが、[[オラニエ
デ・ウィットは、その数学的才能を発揮して財政再建を進め、また第一次英蘭戦争での敗戦を教訓に海軍力を増強した。
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