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6世紀になると[[智証麻立干]]・[[法興王]]らが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には[[真興王]]による急激な領域拡大が可能となった。高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、[[562年]]には加羅地方の大加羅を滅ぼして占領し、文字通りの三国時代となった。中国に対しては[[564年]]に[[北斉]]に朝貢して翌年に[[冊封]]を受け、その一方で[[568年]]に[[南朝 (中国)|南朝]]の[[陳 (南朝)|陳]]にも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。[[隋]]、[[唐]]に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。
 
唐の中国統一の後に危機感を募らせた高句麗は[[淵蓋蘇文]]が実権を握って緊急軍事態勢を敷き、新羅と激しく対立するようになっていた百済の[[義慈王]]と連携([[麗済同盟]])したため、新羅は国際的に孤立することとなった。新羅は[[643年]]に[[善徳女王]]が唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた。このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の{{lang|ko|毗曇}}が女王の廃位を求めて反乱を起こした。乱を治めた[[武烈王|金春秋]](後の武烈王)と[[金信|{{lang|ko|金庾信}}]](『[[三国史記]]』によれば、[[黄帝]]の子の[[少昊|少昊金天氏]]の子孫<ref group="註釈">『三國史記』列傳 第一:金庾信 上
:金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂<span style="color:#ff0000;">少昊金天氏之後</span> 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也</ref>)とは[[真徳女王]]を立てて親唐路線を継承していった。金春秋は中国の[[律令制度]]を取り入れる改革を始め、[[650年]]にはそれまで新羅独自で用いていた年号([[太和 (新羅)|太和]])を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。
 
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=== 中代(654〜780年) ===
[[武烈王]]の即位した[[654年]]から、その直系の王統が途絶える[[780年]]までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。新羅は[[金信|{{lang|ko|金庾信}}]]が援軍を率いて、唐軍に付き随い[[百済]]へ進軍。[[660年]]に百済を滅ぼし、[[663年]]に唐軍が白村江にて[[倭国]]の水軍を破ると([[白村江の戦い]])、[[668年]]に唐軍が[[高句麗]]を滅亡させた戦いにも従軍した。
 
=== 新羅の半島統一 ===
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*768年7月 : [[#官位制度|一吉飡]](7等官)大恭・[[#官位制度|阿飡]](6等官)大廉の兄弟の反乱。貴族連合体制復活派の反乱とみられる。王都を33日間包囲するが、王の軍隊が平定した。
*[[770年]]8月 : [[#官位制度|大阿飡]](5等官)の[[金融]]の反乱。金融は[[金ユ信|金庾信]]の後裔であり、中央貴族に対抗する地方勢力を代表する。律令体制推進派と見られる。
*[[775年]]6月 : 伊飡の[[金隠居]]の反乱。元侍中の金隠居は金融の反乱の後に退官しており、後に反乱を起こした。貴族連合体制復活派の反乱と見られる。
*775年8月 : 伊飡の[[廉相]]、侍中(現職)の[[正門]]が反乱を企てたことが発覚して誅滅された。正門は金隠居の退官の後に侍中に就任しており、律令推進派の反乱と見られる<ref>貴族連合体制復活派の反乱としていた井上秀雄も、廉相・正門らは律令推進派とする見方にのちに転じている。→井上訳注1980 p.315 注65</ref>。こうした政治的対立の中で[[776年]]正月には新羅政府は教書を出し、律令体制を強固に推進した景徳王が唐風に改名した百官の名称を、旧来のものに戻した。貴族連合体制派への譲歩であったと見られるが、律令体制推進の政策を廃止しようとするものではなく、同年3月には倉部(徴税)の史(3次官)を8名増員している。名目的には律令体制の推進を控えながらも、国家財政や人民支配の強化という点においては貴族層・官僚層の間には共通の意識が持たれていたことの現われと考えられている<ref>井上1972 pp.229-231.</ref>。
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{{See|骨品制}}
=== 官位制度 ===
『[[三国史記]]』新羅本紀によれば、建国の当初のころは「大輔」という官名が最高位のものとして確認されるが、第3代[[儒理尼師今]]の9年([[32年]])に、下表の17階級の官位(京位)が制定されたとする。枠外の官位としては、第23代[[法興王]]の18年([[531年]])に宰相に相当するものとして「'''上大等'''(上臣)」が設けられた。また、三国統一に功績のあった[[金信|{{lang|ko|金庾信}}]]を遇するものとして、第29代[[武烈王]](金春秋、キム・チュンチュ)の7年([[660年]]:この年[[百済]]を滅ぼす)には伊伐{{lang|ko|飡}}(角干)の更に上に「大角干(大舒発翰)」、さらに武烈王の息子の第30代[[文武王]](金法敏)の8年([[668年]]:この年[[高句麗]]を滅ぼす)には「太大角干(太大舒発翰)」という位が設けられた。
 
新羅王が新たに即位すると、直ちに最高官位の上大等(古くは大輔、舒弗邯)が任命され、その王代を通じて権力の頂点にたつという例が多い。これは貴族連合政治体制の現れであると見られている。強力な王権が確立した三国統一の後にも上大等が任命されるという慣習は続いているが、[[真徳女王]]の代になって[[651年]]には国家機密を掌握する執事部が設けられ、その長官の'''中侍'''が上大等に代わって政治体制の要となった。