「平田篤胤」の版間の差分

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== 思想 ==
当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、[[儒教]]・[[仏教]]と習合した[[神道]]を批判したが、やがてその[[思想]]は宣長学派の[[実証主義]]を捨て、神道的方面を発展させたと評されることが多い<ref name=itoh246>[[#伊東|伊東(1979)pp.246-247]]</ref>。篤胤の学説は、[[関東地方|関東]]・[[中部地方|中部]]・[[奥羽]]の[[神社]]・[[農村]]・[[宿駅]]など在方の有力者に信奉され、従来の諸学派をしのぎ、幕末の思潮に大きな影響をあたえ、特に[[尊皇攘夷]]運動の支柱となった<ref name=itoh246/>。
 
篤胤は独自の[[神学]]を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした<ref name=itoh246/>。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。そのために天地の始原・[[神祇]]・生死・[[現世]][[来世]]などについて、古史古伝に新しい解釈を加え、[[キリスト教]]の教義も取り入れ、葬祭の儀式を定め、心霊や[[仙術]]の研究もおこなっている<ref name=itoh246/>。[[仏教]]・[[儒教]]・[[道教]]・[[蘭学]]・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し八家の学とも称した。なお、篤胤が大切にしていた[[新井白石]]肖像画が現在も伝世しており、学者としてすぐれ、実証的論理的に学問をおこなう人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念をいだいていたことがわかる<ref name=rekihaku/>。また、西洋医学、[[ラテン語]]、[[暦|暦学]]・[[易学]]・[[兵法|軍学]]などにも精通していた。篤胤は、本居宣長同様、日本が他のどの国よりも優秀であると主張するが、しかし、宣長のように日本人本来の心を取り戻すために儒学的知を排除しなければならないというような異文化排斥の態度をとらない<ref name=nishioka215/>。彼の学問体系は知識の広範さゆえにかえって複雑で錯綜しており、不自然な融合もみられるとも称される<ref name=itoh246/>。篤胤の神道は[[復古神道]]と呼称され、後の神道系[[新宗教]]の勃興につながった。
 
篤胤の学説は学者や有識者のみならず、庶民大衆にも向けられた。彼は、国学塾として真菅乃屋(のちに[[気吹舎]])を[[文化 (元号)|文化]]元年(1804年)に開き、好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸をひらいた<ref name=katurajima74>[[#桂島|桂島(1989)pp.74-75]]</ref>。文化元年(1804年)から[[明治]]9年([[1876年]])まで、篤胤死後も含めた平田塾の門人数は約4,200名にのぼったとされるが、このように、平田塾が広範囲に多数の門人を集めた理由のひとつとしては、平田国学が、近代をむかえようとする在方レベルでの新しい知識欲に応えうる内容を有していたからだと考えられる<ref name=katurajima74/>。すなわち、その国学には、たとえ通俗化したかたちではあっても[[洋学]]からの新知識や世界の[[地誌]]や[[地理]]、[[地動説]]にもとづく[[宇宙論]]、[[分子論]]を取り込んだ[[霊魂]]論、また、復古神道の論理的帰結であり、[[身分制]]の解体を希求する「御国の御民」論など、当時、台頭しつつあり、また地方の課題に向き合うことを余儀なくされた在方の豪農層には新鮮で有用な知見が多く含まれていたと考えられるのである<ref name=miyaji28/><ref name=katurajima74/>。
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篤胤は、[[学問]]をするにはまず自らの死後の魂の行方を最優先で知らなければならないと断言した。そうして心の安定を得て、初めて学問に向き合えるとした。
 
本居宣長は、古典に照らして、人の魂はその死後、[[黄泉]]に行くと考えたともされる。黄泉の国は良くない国であり、そのことは逃れのないことで、だから死ぬことほど悲しいことはないと述べた<ref name=nishioka215/>。悲しいものは悲しいのであり、その現実をそのまま受け入れるべきだと説いた<ref name=nishioka215/>。宣長の門人で篤胤に大きな影響を与えた服部中庸も同様に死者の魂は黄泉国に行くとした。ただし、中庸は黄泉国は空に浮かぶ[[月]]のことであり、その世界は[[須佐之男命]]([[月読命]]と同神だという)が治めていると考えた。
 
一方、篤胤は、他の学者のように他界を現世と切り離して考えたりはしなかった<ref name=nishioka215/>。黄泉の国の存在は認めたが、人は死後、黄泉の国へいく霊と、神になる霊とに分かれ、よい志をもっていた人の霊は神となって、神々の国である幽冥界へ行くのだとしたのである<ref name=nishioka215/>。篤胤は、現実の習俗などから類推して、死者の魂が異界へおもむくのは間違いないが、その異界は現世のあらゆる場所に遍在しているとし、神々が[[神社]]に鎮座しているように、死者の魂は[[墓]]上に留まるものだとした<ref name=nishioka215/>。現世からはその幽界をみることはできないが、死者の魂はこの世から離れても、人々の身近なところにある幽界にいて、現世のことをみており、祭祀を通じて生者と交流し、永遠に近親者・縁者を見守って行くのだとした<ref name=nishioka215/>。これは[[近代]]以降、[[民俗学]]が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いといえる<ref name=miyaji28/><ref name=nishioka215/>。逆に言えば、民俗学はその意味で、平田国学は民俗学の成立に強い影響を強く受けているあたえたということもあ<ref name=miyaji28/>また、現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。
 
篤胤によれば幽界は[[大国主命]]が司る世界だという。であり、大国主命がみずから退隠した勇気によって死後の安心は保証されているのだとしている<ref name=1000ya/>。大国主命は死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課すとしているが、死者が受けるその懲罰について、篤胤は詳細を述べていない。これは、篤胤の関心があくまで、この世における人生の不合理性の解決・[[救済]]にあり、為政者が望むような倫理的な規範の遵守を説くものではなかったことを示している。この大国主命の幽冥界主宰神説は、篤胤以降復古神道の基本的な教義となった。近代以降の神道および政教関係を大きく方向付けることとなった[[1881年]](明治14年)の祭神論争では、出雲派敗北したことにより公式には否定されるが、現在も多くの神道系宗教で採用されている。
 
平田国学では、幽冥界全体の主宰神は大国主命であるとしたが、各地のことはその土地の[[国魂神]]、[[一宮]]の神や[[産土神]]・[[氏神]]が司るとした。この発想は[[六人部是香]]に受け継がれ、発展させられている。
 
=== 「御国の御民」論と「みよさし」の論理 ===
篤胤の復古神道と、それと結合した「古道の学問」は、一方ではスメラミコトやアキツミカミが高く位置づけながらも、もう一方では日本を成り立たせている一人ひとりを、身分を超越したかたちで「御国の御民」と呼び、主体性をになうものとして理解しとらえられている<ref name=miyaji28/>。「この平篤胤も神の御末胤(みすえ)にさむろう」「賤(しず)の男(お)我々に至るまでも神の御末に相違なし」と篤胤自身が述べているように、[[一神教]]における神と人間の隔絶した関係とは異なる、神と人との親和的なありかたが示されている<ref name=miyaji28/>。厳然とした[[身分制]]が存在する[[幕藩体制]]下にあって、平田国学では天皇との関係で自らを位置づけ、「何々国の御民某」というかたちで表記するのであしてい<ref name=miyaji28/>。日本を構成する66州がその国の御民から成り、御民によって支えられていることが示されていのである<ref name=miyaji28/>。ここに[[地域主義]]的なゆるやかな横のつながりのなかから日本人としての国民意識がまれくる芽があったく<ref name=miyaji28/>。
 
一方、現実には神孫たる天皇と[[征夷大将軍|将軍]]を頂点とする支配体制とをいかに整合していくかが求められるが、これについては、「みよさし(委任)」の論理が用いられた<ref name=miyaji28/><ref name=katurajima74/>。これは「御国の御民」論と結びつくことによって、きわめて一般的な政治論理へと成長してゆく<ref name=miyaji28/>。村落指導者たちは、依然として被支配階級の側にありながら、天皇や幕府・藩から政治を委任された存在としてみずからを規定し、幽冥論によって得られた内面的な安心を拠りどころとして、荒村状況と称される近世後期の村落共同体の崩壊を克服しようとする、に立ち向かっていく強い実践性が付与される<ref name=miyaji28/><ref name=katurajima74/>。この論理は、一方では[[村役人]]として自己の行政下におく一般民衆・百姓に抗議秩序を具体的に説明する際に利用し、他方では、それぞれに割り当てられた職分を遂行できない上層に対する義憤・公憤を噴き出させる武器となった<ref name=miyaji28/>。しかも、自らの行動全体が幽冥界すなわち郷土の先人や父祖から見守られているのであるとした<ref name=katurajima74/>。
 
篤胤の論理は、村落指導者に対し、強い自覚と責任を呼び覚ますものだったのである<ref name=miyaji28/><ref name=katurajima74/>。