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{{複数の問題|出典の明記=2017-08|精度=2017-10|一次資料=2017-08}}
{{Islam}}
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[[ユダヤ教]]や[[キリスト教]]の影響を受けた[[唯一神教]]で、[[偶像崇拝]]<ref group="注釈">猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがある</ref>を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であった<ref>前嶋信次『世界の歴史8-イスラム世界』河出書房新社、1989年、p.74</ref>が、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。
 
<!--==イスラーム==-->
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「Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)」のルール(https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB_(%E5%B0%8E%E5%85%A5%E9%83%A8)#%E7%90%86%E8%A7%A3%E3%81%97%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%84%E6%A6%82%E8%A6%81%E3%82%92%E6%8F%90%E4%BE%9B%E3%81%99%E3%82%8B)。
「理解しやすい【概要】を提供する」
「多くの場合、役立つ略語は紹介しますが、専門用語や記号といった理解の難しいものは避けます。」
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== 概要 ==
{{複数の問題|出典の明記=2018-10|一次資料=2018-10|section=1}}
[[日本語]]における「イスラーム」(isur&#257;mu) は[[アラビア語]]の'''{{lang|ar|إسلام}}''' ('''isl&#257;m''') の[[長母音]]に即した形で[[片仮名|カタカナ]]に音写した語である。この語は、「自身の重要な所有物を他者の手に引き渡す」という意味を持つaslama(アスラマ)という[[動詞]]の[[名詞]]形であり、神への絶対服従を表す。ムハンマド以前の[[ジャーヒリーヤ]]時代には宗教的な意味合いのない人と人との取引関係を示す言葉として用いられていた。ムハンマドはこのイスラームという語を、[[唯一神]]であるアッラーフに対して己の全てを引き渡して絶対的に[[帰依]]し服従するという姿勢に当てはめて用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼んだ。このような神とムスリムとの関係はしばしば主人と[[奴隷]]の関係として表現される<ref>{{Cite book|和書|author=井筒俊彦|title=イスラーム生誕|page=125-126頁、136-137頁|year=2012|edition=改訂3版|publisher=中公文庫|isbn=4-12-204223-2}}</ref>。
 
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しかし一方で、このようなイスラーム理解はイスラームの律法的側面を過度に強調しており、[[スーフィズム]]にみられる[[精神主義]]などの多様なイスラームの形態を反映していない、という批判も強い。
 
== 名称 ==
{{複数の問題|出典の明記=2018-10|一次資料=2018-10|section=1}}
イスラム教はアラビア語を母語とする[[アラブ人]]の間で生まれ、神がアラビア語をもって[[人類]]に下したとされるクルアーンを[[啓典]]とする宗教であり、教えの名称を含め、宗教上のほとんどの用語はアラビア語を起源とする語である<ref group="注釈">本項では、括弧内に示す[[言語]]は、特に断りのない限り、アラビア語の正則語([[フスハー]])を用いる。</ref>。
 
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日本を含む[[東アジア]]の[[漢字文化圏]]では、古くは「[[回教]]」と呼ばれることが多かったが、現在は国際的にイスラームの名に基づく呼称が一般的であり、あまり用いられていない。[[中国語]]では現在も一般名称としてムスリムを“回民”と呼ぶ(「ムスリム」を音写した「穆斯林」も使われるようになっている)。
 
== 世界全体 ==
{{複数の問題|出典の明記=2018-10|一次資料=2018-10|section=1}}
[[File:World Muslim Population Pew Forum.png|thumb|right|400px|世界各国の信徒数の割合]]
[[File:Madhhab Map2.png|thumb|right|400px|法学派の分布]]
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トルコ、東ヨーロッパ、シリア、イラク、エジプト、インド、中央アジアには[[オスマン帝国]]の公認学派であり、最も寛容で近代的であるとされる[[ハナフィー学派]](スンニ派)が多い。その他の地域では、イランは[[ジャアファル法学派|ジャアファル学派]](シーア派)、[[アラビア半島]]は最も厳格なことで知られる[[ハンバル学派]](スンニ派)、[[マグリブ]]は[[マーリク学派]](スンニ派)、東南アジア、東アフリカは[[シャーフィイー学派]](スンニ派)が多い。
 
== 教典 ==
{{複数の問題|出典の明記=2018-10|一次資料=2018-10|section=1}}
===アル=クルアーン===
=== アル=クルアーン ===
{{main|クルアーン}}
[[File:Quran page in naskh.jpg|thumb|right|220px|ナスフ体によるクルアーン(コーラン)]]
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このようなアラビア語に対する認識から、イスラム教は少なくともその成立当初はアラビア語を解するアラブ人のための[[民族宗教]]という一面を持っていたと指摘されることもある。しかし一方で、クルアーンは全人類のために下された啓典といわれており、現実にイスラーム教徒は民族を超えて世界中に存在していることから、イスラームは普遍宗教であるというのが通説である。ただしイスラーム教文化とアラブ文化を混同する傾向は、イスラームが普遍宗教となって以降も、アラブ人ムスリムを中心に残っている。
 
=== スンナとハディース集 ===
上記のとおり、イスラームの教典としてすべてのムスリムがその内容を認める(認めることがムスリムとしての絶対条件とされる)のはアル=クルアーンのみであるが、実際にはアル=クルアーンに次ぐ事実上の聖典と言える書物が存在する。
 
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しかし近代に入ると、ヨーロッパ世界をはじめとする非イスラーム世界の学者達のハディース批判の影響を受け、両真正集のハディースや、甚だしくはハディースすべてを後代のイスラーム共同体による捏造として否認するムスリムも現れるようになった。
 
=== 聖書 ===
上記のとおり、イスラームではアル=クルアーン以前にも啓示を記した書物としてユダヤ教とキリスト教の聖書があるとしている。このことだけ見れば、これらの書物も、アル=クルアーン同様神の言葉であり、聖典として尊ばなければならないということになる。現にアル=クルアーンには、聖書を確証するためにアル=クルアーンがあるという節がある。
 
しかし現実には、ムスリムとユダヤ教徒やキリスト教徒との敵対関係、続くイスラームによる両教徒の制圧と従属民化に伴い、ムスリムの間では現実にユダヤ教徒やキリスト教徒が用いている聖書は改竄と捏造を繰り返されたもので、聖典としての価値を失っているとみなす教義を発達させた。そのため現在に至るまでムスリムが聖書を読むことは、宗教知識人などを除けばほとんどない。
 
== 教義 ==
{{複数の問題|出典の明記=2018-10|一次資料=2018-10|section=1}}
===六信五行===
=== 六信五行 ===
イスラム教の信仰の根幹は、[[六信]]と[[五行 (イスラム教)|五行]]、すなわち、6つの信仰箇条と、5つの信仰行為から成り立っている。
 
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これらの信仰行為は、礼拝であれば1日のうちの決まった時間、断食であれば1年のうちの決まった月([[ラマダーン]]、ラマダン)に、すべてのムスリムが一斉に行うものとされている。このような行為を集団で一体的に行うことにより、ムスリム同士はお互いの紐帯を認識し、ムスリムの共同体の一体感を高めている。集団の一体感が最高潮に達する信仰行為が[[巡礼]](ハッジ)であり、1年のうちの決まった日に、イスラム教の[[聖地]]である[[サウジアラビア]]の[[メッカ]](マッカ)ですべての巡礼者が定まったスケジュールに従い、同じ順路を辿って一連の儀礼を体験する。
 
=== 偶像崇拝の禁止 ===
イスラームにおいては偶像崇拝の禁止が徹底されている。イスラームは神の唯一性を重視するため、預言者の姿を描く絵画的表現は許されない。
それゆえ、ムスリムが礼拝をおこなう[[モスク]]には、他宗教の寺院や聖堂とは異なり、内部には宗教シンボルや聖像など偶像になりうる可能性が存在するあらゆるものがない。ただ、広い空間に[[絨毯]]や[[ござ]]が敷き詰められているだけで、人びとはそこで[[カアバ]]があるメッカの方角([[キブラ]])をむいて祈る。モスクには、メッカの方角の壁に[[ミフラーブ]]と呼ばれるアーチ状のくぼみがあり、ムスリムはそれによってメッカの方向を知る。
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[[写本]][[絵画]]などにおいては、預言者ムハンマドの顔には白布をかけて表現されることが多いが、これも偶像崇拝を禁止するイスラームの教義に由来している。
 
=== 預言者ムハンマド ===
「イスラーム」とは、唯一神アッラーへの絶対服従を意味しており、モーセ(ムーサー)やイエス([[イスラームにおけるイーサー|イーサー]])も預言者として認めている。ただし、イエスもムハンマドもあくまで人間として考えており、それゆえ、[[イスラーム暦]]の元年はムハンマド生誕の年ではなく、[[622年|西暦622年]]に[[メディナ]]にウンマ(イスラーム共同体)ができた[[ヒジュラ]]の年を元年にしている。
 
=== 信徒間の平等 ===
イスラム教の聖典『クルアーン』(コーラン)には信徒間の平等が記されているとする意見があるが、少なくとも『クルアーン』には、「アッラーはもともと男と(女)の間には優劣をお付けになったのだし、金は男が出すのだから、この点で男の方が上に立つべきもの。だから、貞淑な女はひたすら従順に」と、男女不平等を明記する記述もある<ref>井筒俊彦訳「女」『コーラン(上)』岩波文庫、p.137{{信頼性要検証|date=2017-08}}</ref>。イスラーム社会では、他の宗教にみられるような[[聖職者]]・[[僧侶]]階級をもたない。宗教上の指導者を有するのみである。
 
現実には、[[ウマイヤ朝]]では、シリア総督であった[[ムアーウィヤ]]は、シリア優先主義を採り、アラブ人、特にシリアに移住したアラブ人の優越主義が採られ、アラブ人ムスリムと改宗ムスリム(マワーリー)との税制・待遇面の格差は著しかった。対して、[[アッバース朝]]ではその反動から、シュウービーヤという思想が起こり、これはカバーイル(アラブ人)にシュウーブ(ペルシャなどの先進文化地域民)を対比させ、シュウーブの優越を主張したものであった。結果、アラブ人の特権は、廃止された。このように、果たして平等かどうかは、時代によって波がある<ref>前嶋信次『世界の歴史8-イスラム世界』河出書房新社、1989年、p.172</ref>。また、インド圏のイスラム教徒の間には、アシュラーフ等とするカースト的な慣行が存在しており、平等ではない。
 
=== イスラームにおける天国 ===
[[イスラームにおける天国]]({{lang|ar|'''جنّة''' ''jannah''}}) は、信教を貫いた者だけが死後に永生を得る所とされる。キリスト教と異なり、イスラム教の聖典『クルアーン』ではイスラームにおける天国の様子が具体的に綴られている。
 
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しかし、これらの描写は比喩的なものに過ぎないという意見もある。また、処女とは間違いで、実際は白い果物という意味だという説もある。650年頃に編纂されたコーランの書かれた地域のアラビア語の方言と、現在使用されているアラビア語では、意味が違ってくることを理由としている。2005年にドイツのクリストフ・ルクサンブルクが、古代に書かれたコーランを古代アラブ・シリア語の語彙で解読すると、先述したように、意味が違ってくると主張している<ref>[http://web.archive.org/20060524194140/homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C394170269/E124450035/index.html ルモンド抄訳が finalvent さんに褒められた!]</ref>。
 
== 社会生活 ==
{{複数の問題|出典の明記=2018-10|一次資料=2018-10|section=1}}
ムスリムは、クルアーンのほかに、預言者ムハンマドの膨大な言行をまとめた[[ハディース]](伝承)に、クルアーンに次ぐ指針としての役割を与えている。その理由は、ムハンマドは神に選ばれた最高の預言者であるから、彼の言行のすべては当然に神の意志にかなっていると考えられるからである。また、ムスリムの実生活上の宗教や日常に関するさまざまな事柄を規定するために、クルアーンやハディースを集成して[[シャリーア]](イスラーム法)がまとめられている。
 
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総合的に見ると、やはり中東地域(特にイラン、サウジアラビア)から離れるほど、一般的に律法としてのイスラームの教えは緩和されている。
 
== 組織 ==
{{複数の問題|出典の明記=2018-10|一次資料=2018-10|section=1}}
[[File:Blue Mosque Istanbul Mirrored.JPG|thumb|right|220px|[[トルコ]]の[[スルタンアフメット・モスク]]]]
イスラム教における信徒の共同体(ウンマ)は、すべてのムスリムが参加する水平で単一の組織からなっていると観念されることが多い。
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ウラマーは、クルアーン学、ハディース学、イスラーム法学、神学など、イスラームの教えに関するさまざまな学問を修めた知識人を指すが、彼らは社会的な職業としてはイスラーム法学に基づく法廷の裁判官([[カーディー]])、モスク(礼拝堂)で集団礼拝を指導する導師([[イマーム]])、宗教的な意見([[ファトワー]])を発して人々にイスラームの教えに基づく社会生活の指針を示す[[ムフティー]]、イスラームの諸知識を講じる学校の教師などに就き、ムスリムの信仰を導く役割を果たしている。ウラマーは信仰においてはあくまで他のムスリムと同列に置かれており、建前の上では聖職者ではない。そのためキリスト教や仏教などと違い社会的な特権(税金の免除など)はないが妻帯禁止や禁欲など制限も存在しない。モスクを維持するために信者から集められる[[ワクフ]]が実質的にお布施のような物となり、モスクの管理者であるウラマーは信者からのワクフによる収入で暮らしていることも珍しくない。十分なワクフを集められない小規模組織では普段はほかの職業の就いていて週末のみウラマーとして働くことも珍しくはない。しかし宗教上は他の宗教における聖職者と同様の役割を果たした。このため、[[マスメディア|マスコミ]]などではしばしばウラマーは「イスラム教の聖職者 (cleric)」と報道されている。イスラームの原則として内心のことを判断できるのはアッラーのみなので建前上ウラマーなどの権威は当人の信仰の確かさに基盤があるのではなくクルアーン、ハディース、シャリーアなどについての知識によるものである。
 
== 歴史 ==
{{複数の問題|出典の明記=2018-10|一次資料=2018-10|section=1}}
[[File:Madina Haram at evening .jpg|thumb|790px|[[マディーナ]]にて]]
 
=== 始原 ===
西暦610年頃に、ムハンマドはメッカ(「マッカ」とも言う)郊外で天使[[ガブリエル|ジブリール]]より唯一神(アッラーフ)の[[啓示]]を受けたと主張し、アラビア半島でイスラーム教を始めた。当時、メッカは人口一万人ほどの街で、そのうちムハンマドの教えを信じた者は男女合わせて200人ほどに過ぎず、他の人々は彼の宗教を冷笑したが、妻のハデージャや親友の[[アブー・バクル]]、甥の[[アリー]]、遠縁の[[ウスマーン]]達は彼を支えた。
 
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この後もメッカや近隣のユダヤ人との攻防勝敗を繰り返しながら、ムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにメッカを占領し、カーバ神殿にあったあらゆる偶像を破壊して、そこを聖地とした。なお、メッカを占領する頃になるとムハンマド達は一万人の軍を組織できるようになっていたが、このムハンマドを巡る抗争で弱り切ったメッカを背後から襲おうと、南ヒジャーズ地方の人々一万人が武装して、メッカ近郊に待機していた。メッカを手に入れると、直後にムハンマドはこれらを襲撃、大破したが、アラビア半島で万単位の軍が激突することは、数百年来なかった大事件であった。このため、ムハンマドの声望は瞬く間にアラビア中に広まり、以後、全アラビアの指導者たちがムハンマドの下に使節を送ってくるようになった。こうして、イスラム教はアラビア中に伝播した<ref>後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、p.43</ref>。(ちょうど、[[東ローマ]]軍の侵攻で、近隣の[[ササン朝ペルシア|ササン朝ペルシア帝国]]が衰退していた時期でもあり、それもこうした動きに拍車をかけた<ref>後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、p.44</ref>。)
 
=== ジハードとイスラム帝国の形成 ===
その[[632年|翌々年]]にムハンマドはマディーナで死ぬが、マディーナの民は紆余曲折の末、イスラム教の後継者にアブー・バクルを選び、その地位をカリフと定めて、従った。しかし、アラビア中でそれを認めない指導者は続出し、中には自ら預言者と主張する者も現れ、纏まってマディーナを襲う準備を始めた。アブー・バクル達から見ればとんでもない動きであり、以後征討戦が繰り広げられ、アブー・バクル側が勝利すると、カリフ制度はイスラム教の政治的中核として定まった。こうしたムハンマド死後の一連の後継者紛争を、イスラム側の史書では、リッダの戦い、と呼ぶ<ref>後藤明、吉成勇編『世界「戦史」総覧』新人物往来社、1998年、p.44-45</ref>。
 
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こうして、イスラム教はその軍事活動を以って、教勢を中東中に広げ、周辺地域への遠征活動はその後も続き、短期間のうちに大規模なイスラム帝国を築き上げた。
 
=== スンナ派とシーア派の分離 ===
しかし、拡大とともに内紛も生じ、2代カリフ・ウマルの暗殺後、ウスマーンが後を継ぐが、イスラム教徒内でわだかまっていた[[ウマイヤ家]]([[クライシュ族]]の中の有力部族)への反発から、やがて彼も殺され、ムハンマドの甥の[[アリー・イブン=アビー=ターリブ|アリー]]が4代目カリフとなる。が、ウマイヤ家のシリア総督[[ムアーウィア]]は反発し、両者の間で戦闘を交えた対立が起きてしまう。結果的に、アリー(661年)とその息子フセインは殺害され(680年)、ムアーウィアがカリフとなり、以後は選挙によらず、ウマイヤ家の家長がカリフ位を世襲するようになった<ref>小玉新次郎『西アジアの歴史』pp.132-134</ref>。イスラーム勢力はこれを機に、ウマイヤ朝という明白な世襲制王朝へと変貌することになり、その体制の違いから、アリーまでの四代を正統カリフとして、以後のカリフと区別する見方が、一般的である。
 
また、こうした四人の正統カリフのうち、三人までもが暗殺で亡くなっているのも特徴的である<ref>小玉新次郎『西アジアの歴史』p.134</ref>。こうして脱落したアリーの支持勢力を中心に、4代以降の座を巡って、ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラーム共同体を指導する資格があると主張する急進派の[[シーア派]](「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)と、それ以外の体制派の[[スンナ派]](「ムハンマド以来の慣習([[スンナ]])に従う者」の意)へと、イスラーム共同体は大きく分裂した。また、ウマイヤ朝下では、政治的少数派となったシーア派は次第に分派を繰り返していき、勢力を狭めた。
 
=== ウマイヤ朝 ===
[[File:Age of Caliphs.png|thumb|right|300px|750年ころのウマイヤ朝の領土。濃い赤はムハンマド生前の領土、赤は正統カリフ時代の領土]]
ムアーウィアは、現実感覚に富み、柔軟な手練手管でイスラム帝国を統治した。彼の体制が大きく変わるまでの約100年弱の期間を称して、一般にウマイヤ朝と呼ぶ。彼はウマイヤ家の封土であったシリア優先政策を採り、首都も[[ダマスカス]]に移したが、他方では、懐柔政策で地方の反乱を未然に防ぎ、息子ヤジードのカリフ位世襲に腐心した。当時の史料には、メッカ・マディーナの有力者に賄賂を与え、反対者を孤立させたうえで、自ら千騎を率いて、マディーナに乗り込み、残った者達を黙らせる様子が描写される。
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しかし、その後彼は罷免され、それを不満に反乱を起こすが、自分の部下により殺害され、こうしてイスラム帝国の領土拡張は終息した。また、こうした時期、アブドゥル・マリクは、キリスト教徒を激しく嫌い、厳しく弾圧したが、何名かのカリフは懐柔策を行い、キリスト教徒を下層民として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)を課すことで満足した。改宗は奨励され、重税の減免と社会的地位向上を求めて、ムスリムに改宗する者も少なくなかったが、一方で、このシステムにはジレンマがあり、異教徒が減ることは税収の減少を意味し、ウマル2世の代には改宗者([[マワーリー]])に地租を課すようになり、それはしばしば大きな反乱を誘発した。エジプトでは8世紀にはまだ大多数がキリスト教徒であり、これらがイスラム教徒に改宗するまで、なお500年の年月を必要とした<ref>『世界の歴史 5』中央公論社、1961年、pp.237-248</ref>。
 
=== アッバース朝以後 ===
ウマイヤ朝では、ワリードが死ぬと、子の[[ウマル2世 (ウマイヤ朝)|ウマル2世]]が継いだが、彼の治世は文治政策で後世の史家の評判は良い。その後は、短命だったり暗愚なカリフが相次ぎ、ウマイヤ朝が元来、その構造に抱えた問題(シリア優先主義、アラブ人と改宗者(マワーリー)の不平等)の為に、相変わらずに反乱は頻発した。最後の君主、マルワーン2世は、首都を[[ユーフラテス川]]上流のハルラーンに移し、反乱の大部分を鎮定し、再発防止にシリア諸都市の城壁の撤去を行った。
 
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しかし、同時にアッバース朝の時代には、イベリア半島にウマイヤ家の残存勢力が建てた[[後ウマイヤ朝]]、北アフリカにシーア派の[[ファーティマ朝]]が起こり、ともにカリフを称し、カリフが鼎立する一方、各地に地方総督が独立していった。
 
=== 近代 ===
[[近代]]に入ると、イスラム教を奉じる大帝国であるはずのオスマン帝国が[[キリスト教徒]]のヨーロッパの前に弱体化していく様を目の当たりにしたムスリムの人々の中から、現状を改革して預言者ムハンマドの時代の「正しい」イスラム教へと回帰しようとする運動が起こる。現在のサウジアラビアに起こった[[ワッハーブ派]]を端緒とするこの運動は、[[イスラーム復興]]と総称される潮流へと発展しており、多くの過激かつ教条的なムスリムを生み出した。一方で順調に[[自由主義|リベラル思想]]を身につけイスラムの改革を行う人々も多数出現し、イスラームは前近代にも増して多様な実態を持つことになった。
 
== 他の宗教との関係 ==
{{複数の問題|出典の明記=2018-10|一次資料=2018-10|section=1}}
{{Main|イスラム教と他宗教との関係}}
イスラームは先行したユダヤ教、キリスト教などから大きな影響を受け、またシーク教やバハーイー教の成立に大きな役割を果たした。
 
=== ユダヤ教との関係 ===
ユダヤ教は'''[[アブラハムの宗教]]'''の根本ともいえる宗教であり、イスラームに大きな影響を与えている。イスラームの律法的側面は、ユダヤ教から受け継いだものであるとされる(有名な例:[[割礼]]、[[ハラール]]、[[司法律法]])。
 
ユダヤ教の'''[[旧約聖書]]'''には'''クルアーン'''と同じ預言者が記されている。クルアーンではユダヤ教徒はアッラーによって最初に啓示(最初の預言者はアーダム(アダム)とされる)を与えられた[[啓典の民]]であり<ref>クルアーン2:47{{信頼性要検証|date=2017-08}}</ref><ref>クルアーン2:122{{信頼性要検証|date=2017-08}}</ref><ref>クルアーン45:16{{信頼性要検証|date=2017-08}}</ref>、キリスト教徒やサービア教徒といった同じ啓典の民とともにアッラーを信じ信仰を守っていれば、ご褒美を頂けるとされる<ref>クルアーン2:62{{信頼性要検証|date=2017-08}}</ref>。
 
=== キリスト教との関係 ===
キリスト教もまたイスラームに強い影響を与えた。しかし、ムハンマドは'''ナザレのイエス'''を使徒であり預言者であるが、神の子ではないとしている。具体的には、『クルアーン』で「これがマルヤムの子イーサー。みながいろいろ言っている事の真相はこうである。もともとアッラーにお子ができたりするわけがない。ああ、恐れ多い」<ref>井筒俊彦訳『コーラン(中)』岩波文庫、p.130{{信頼性要検証|date=2017-08}}</ref>と述べ、対して、キリスト教では聖書で、「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」<ref>「ヨハネの手紙一」2章22節{{信頼性要検証|date=2017-08}}</ref>とする。このようにお互いの教義に致命的な矛盾点があり、キリスト教がもし正しければ、イスラム教は偽者、反キリストということになってしまい、イスラム教の視点からはその逆であり、こうした点から[[白取春彦]]はキリスト教とイスラム教が対立せざるを得ないのも当然、とする<ref>白取春彦『「キリスト教」がわかる』三笠書房、pp.169-174</ref>。クルアーンにもイエスの物語が記されているが、白取春彦は、キリスト教側から見れば、イスラム教は、聖書を安易に書き換えた都合のいいフィクションでしかない、とする<ref>白取春彦『「キリスト教」がわかる』三笠書房、p.173</ref>。
 
基本的にイスラームではイエス以外のパウロを含むキリスト教の使徒達を神の啓示を受けた預言者として考えないので新約聖書で福音書等(インジール)イエスの言動に根拠を持つ可能性のある部分以外は尊重しない。
 
=== シーク教との関係 ===
シーク教は中世から近世にかけて、インドにおけるイスラーム神秘思想とヒンドゥー教のバクティ信仰が相互浸透をした結果生まれた一神教であり、ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教などインド系宗教の特質とともに、アブラハム系の宗教の特色も備えている。
 
=== バハーイー教との関係 ===
バハーイー教はイスラーム教の預言者ムハンマドの外孫フサインの子孫(サイイド)であるとされるセイイェド・アリー・モハンマドによって開かれた宗教バーブ教を母体とし、その弟子バハウッラーによって創始された宗教である。バハーイー教はそもそもイスラーム教12イマーム派から生まれた宗教であり、その思想や戒律にはイスラームの強い影響が見られる。
 
イスラームの保守層からして、バハーイー教徒は「背教者」「異端」であり、すさまじい憎悪を浴びている。多くのイスラーム教国でバハーイー教は圧迫されており、とりわけ発祥の地イランではイスラーム共和制の名の下に弾圧されている。バハーイー教の信者は無神論者などと同様、憲法でその存在を承認されておらず、信仰が発覚した場合投獄され最悪の場合死刑に処される。
 
== 現代のイスラム教を巡る諸問題 ==
{{複数の問題|出典の明記=2018-10|一次資料=2018-10|section=1}}
イスラム教徒が多数派の国、あるいは無視できない規模の少数民族である国に、また欧米などの先進国におけるイスラム教徒の移民やその子孫が起こす宗教問題など現在議論されている問題をここで述べる。またイスラム教徒が多数派の国でも国の実権を握る軍部(トルコやアルジェリア)や政党(バアス党)などがシャリーアを施行していない場合はこれらの国はイスラーム国家ではない。またイスラム教徒が多数派でなくとも一部の州で多数派を形成する場合はシャリーアがその州だけ適応される場合がある。
 
=== 政治的問題 ===
{{Main|イスラーム主義|イスラーム原理主義}}
イスラームの項目でもあるように、「イスラム教は宗教的理念のみならず、民間の慣習や政治に深く関わっている。そのため、政教分離を特徴とするシステムとイスラーム的なシステムは相矛盾する」という主張がある。これは伝統的社会秩序を維持したい保守派ムスリムによって主張されることが多い。そのためどの程度折り合いをつけるかが、20世紀以来のイスラーム社会の大きな問題となってきた。
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また、[[中東戦争]]など、ムスリムが大多数を占める国々に対する欧米諸国の介入を目にして、欧米のキリスト教社会がイスラーム社会を圧迫し、蹂躙していると構図でとらえるムスリムは多い。にもかかわらず、[[イスラム諸国|イスラーム諸国]]は国際的な発言力が大きいとはいえないし、イスラーム諸国の中に強い影響力を持つ[[エジプト]]やサウジアラビアなどが親米・欧米協調路線をとっているため、イスラーム諸国はしばしばイスラーム社会が「被害者」となる情勢に対して無力である。これらのことが、イスラーム社会の多くの民衆に反欧米感情とともに、自国政府の「同胞の危機に対する無力」に対する失望・不満を鬱積させることになっていて、暴力によって欧米社会の圧力を排除しようとする過激派([[アルカーイダ]]、[[ジェマ・イスラミア]]など)の誕生のひとつの要因になっている、との見方もある。
 
=== 現代国際社会の普遍的価値観との相克 ===
イスラム教国に於ける、若しくはイスラム教国以外でもムスリムで構成される社会に於ける人権侵害などはしばしば[[反イスラーム主義]]的傾向を持つ立場の人々からイスラーム自体の欠陥として攻撃されることがある。また、アッバース朝の時代にほぼ固まった[[イスラーム法]]を遵守する結果、その後の社会情勢の変化に対する柔軟な対応を欠くようになったという主張も根強い{{要出典|date=2018年4月}}<ref group="注釈">近年の研究成果により、イスラーム法は社会情勢の変化に全く対応していないわけではなく、ファトワーの積み重ねや解釈の変更などは歴史的に積み重ねられてきたことが明らかにされてきた。ここで述べられたようにイスラーム法が硬直的であるという決め付けは反イスラーム主義やキリスト教優越主義、多神教優越主義に基づく部分もあるとされる。</ref>。
 
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全体的な趨勢としては、社会の都市化・近代化が進んだ地域では、イスラームの教えを根拠とする価値観が薄らぎやすい傾向があるとされる一方、都市化・近代化で伝統的な共同体が破壊された結果、人々がアイデンティティの拠りどころをイスラーム的な価値観に求め、生活を再び保守化する傾向があるとされている。特にトルコなどでは田舎から都市部へ流れた労働階級の宗教的保守化は現在の政情に大きな影響を与えている。しかし、保守的なイスラム教徒といえども、現代社会の価値観と全く無縁に生活するというわけにはいかないため、彼らも一定程度は現代社会の価値観を受け入れる動きを見せている。[[レザー・アスラン]]によると、イスラム教徒各人に独自のクルアーン解釈が育まれてきている<ref>[http://globe.asahi.com/author/090608/01_01.html The Author―著者の窓辺 第6回 イスラムの解釈を個人が再定義する 「宗教改革」は、すでに始まっている]</ref>。{{要出典|date=2018年4月}}
 
=== 信教の自由とシャリーアとの矛盾 ===
{{Main|ズィンミー|イスラーム国家|イスラム教における棄教}}
現代社会においては、特定の宗教を奉ずる宗教国家もしくは[[社会主義国|共産主義国]]などの[[無神論]]国家などが、特定の宗教的信条を擁護し、他を迫害してきたこと、それにより宗教を理由とした戦争も起こったことなどを踏まえ、先進諸国の多くで信教の自由が承認されている{{要出典|date=2018年4月}}。国際人権宣言などでも、信教の自由は国家が人間に保障するべき最重要の権利のひとつとして位置づけられている。
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他宗教に対してはその時代や地域によってさまざまな政策がとられていて、寛容な社会も存在するにもかかわらず、厳格で偏狭な国や地域ばかりを取り上げて、イスラム教は信仰の自由を認めないなどとする言説には問題があるといえる。
 
=== 同性愛者の人権 ===
{{Main|イスラーム世界の少年愛|イスラーム教徒による性的マイノリティー迫害}}
現代においてイスラーム世界における[[性的少数者]]、中でも[[同性愛]]者に対する扱いは劣悪であるとされている{{要出典|date=2018年4月}}。多くの国で彼らは「神の道に反した」行いに耽っている「堕落」したものたちと見られている。とりわけシャリーアを施行するイスラーム国家では、同性愛は「[[ハラーム]]」であるとされており、刑事罰に処されることも少なくない{{要出典|date=2018年4月}}。
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しかしイスラームの歴史を紐解けば容易に理解できるように、前近代イスラーム世界においては性的少数者に対する寛容の精神が根付いていた地域も少なくなかった{{要出典|date=2018年4月}}。詩集のなかにも同性セックスのすばらしさを謡った詩が少なくない。また現代でもイスラーム教徒の中には同性愛をはじめとする性的少数者への差別に反対している人物(同性愛、非同性愛含め)も少なくないのも紛れもない事実である{{要出典|date=2018年4月}}。
 
=== 「女性差別」問題 ===
{{Main|イスラームと女性}}
一般にイスラーム社会は男尊女卑の世界と考えられており、実際に現在でも多数の虐待や差別があり深刻化している(「[[名誉の殺人]]」、「[[女子割礼]]」、「女子の就学制限」)。ただし、実際はこれらはクルアーンなどでは言及されておらず、イスラーム以前からある土着の慣習である。
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しかしクルアーンやイスラーム法を紐解けば、当時低い立場にあった女性の立場を守るために下された条項なども含まれている。そこには法的に女性の遺産相続や離婚<ref group="注釈">ただし男性にのみ一方的離婚権が認められている</ref>、学習の権利を認める文言があり、これを根拠にシャリーアなどイスラーム社会の伝統的な法慣習に擁護的な論者はイスラームは男女同権であり、男尊女卑という非難は不当であると主張している。女性の遺産相続額は一般に男性の半分だが、これはクルアーンによれば家庭の生活費を払うのは男性であり、金銭的に男性の方が負担が大きいからである。
 
==== 一夫多妻 ====
イスラーム法では男性は4人まで妻を有する権利を有する[[一夫多妻制]]であるが、これは少なくとも建前の上では男尊女卑的な思想に基づくものではなく、当時預言者ムハンマドが率いる2回の戦争で夫を亡くした女性の地位を守り、母子の生活手段を確保するために神が下した啓示であり、弱者救済策を目的としていると説明されている。複数の妻を有する場合は夫は妻らを平等に愛し、扱うことが義務とされており、クルアーンにもそのことが記されている。
 
303 ⟶ 331行目:
現代社会では、一部の裕福な層とかなり貧困な層を除き、イスラーム社会の夫婦の大部分が一夫一妻である。また、イスラム教は、妻の数を4人までと定めている唯一の宗教で、同じ一神教であるキリスト教やユダヤ教には、そのような法律は定められていない。両者で一夫一妻制が主流なのは歴史的経緯によるもので、宗教的なものではない。
 
==== 女児の早婚 ====
{{Main|イスラームと児童性愛}}
前近代イスラーム世界では、世界の他の地域同様早婚が社会的に認められていた。イスラーム法における女児の最低結婚年齢は9歳であるが、これは預言者[[ムハンマド]]がアーイシャと結婚し、初性交を行った時のアーイシャの年齢に由来している<ref>ブハーリーのハディース集成書『真正集』「婚姻の書」第39節第1項(アーイシャ自身からの伝){{信頼性要検証|date=2017-08}}、同第40節(アーイシャおよび伝承者ヒシャームからの伝){{信頼性要検証|date=2017-08}}、同第59節(伝承者ウルワからの伝)その他{{信頼性要検証|date=2017-08}}。ハディース中の「9歳で婚姻を完成させた」という一文が実際に「性行為を行ったという意味とされるのは集成書の注記による{{要出典|date=2017-08}}。</ref>。そのため結婚の形式を満たした上での女児への性行為は、客観的に見て虐待と思われるような内容であっても、問題されることは少なかった。インドのイスラーム学者マウラナ・ムハンマド・アリーはアーイシャがムハンマドと初夜を迎えた年齢は15歳であったと主張している<ref>Maulana Muhammad Ali, The Living Thoughts of the Prophet Muhammad, p. 30, 1992, Ahmadiyya Anjuman Ishaat, ISBN 0-913321-19-2 </ref>
311 ⟶ 339行目:
しかし一方で、多くの国ではすでにそのような慣習は廃止され、女性の結婚最低年齢も非イスラーム諸国と大差はなく、女児への性行為はシャリーアにおける結婚の形式を満たしているかにかかわらず性的虐待であるという意識も広まっている。例を挙げれば、モロッコでは国王お抱えのウラマー評議会が、ムハンマドの事跡を根拠に9歳の少女との結婚・セックスを認めるファトワーを出したウラマーを非難する声明を出している<ref>[http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2520136/3363853 イスラム聖職者会議、9歳からの女子結婚認める宗教令を批判 モロッコ]</ref>。
 
==== 女性の服装規定問題 ====
{{Main|イスラム圏の女性の服装}}
保守的なイスラーム教徒の主張するところの服装規定を厳格に守れば、女性は自ずと家庭外での活動を制限されることになる。これは、保守的イスラームでは女性は家庭の外では夫以外の男性の視線から自身を守るために女性的な部分を包み隠すべきであるとする教義が存在するためである。これがイスラーム以外の宗教の信徒でも見られる西アジア社会の伝統的な女性の服装習慣と結びついて、女性は外出時には体全身を覆う外出用の衣装を身に付けることがイスラーム的に好ましいと多くの社会では考えられており、サウディアラビアやターリバーン時代のアフガニスタンのように、政府による女性の外出時の服装制限が行われた地域も存在する。また、服装は自由化が進んだ地域でも、イスラーム的な女性の外出時の習慣として[[スカーフ]]を着用し、髪を隠すムスリムの女性は少なくない。しかし、エジプトやトルコなどでは、学生など特に若い層を中心に、日常生活のほとんどを[[ジーンズ]]や[[スカート|ミニスカート]]など軽装で過ごす女性が多い地域も増えてきている。
319 ⟶ 347行目:
スカーフ着用に関しては、イスラーム社会の内外で現在、賛否両論が相次いでいる{{要出典|date=2018年4月}}。慣習に厳格な国では女性が外出する際にスカーフを着用することが強要されている。一方で、世俗主義を標榜するトルコなどでは、政教分離の原則に基づいて公的な場でスカーフを着用することが忌避される{{要出典|date=2018年4月}}。加えて、リベラル・イスラームを標榜する人々や、イスラーム社会外部の人々の中には、スカーフ着用を女性の人権抑圧の象徴として着用を避けるべきと主張するものも少なくない{{要出典|date=2018年4月}}。トルコや、あるいはフランスなどのヨーロッパにおける[[政教分離原則]]の国々においては、法律によるスカーフの着用禁止を巡って、自発的にスカーフを着用するムスリムの女性から逆に人権上の問題ととらえられているような事例もしばしば発生しており、政治問題に波及している。逆にスカーフをかぶらないムスリムの女性(とりわけ若い世代)が、伝統的な価値観を持つ世代(特に父親)と衝突し、殺害されてしまうような事態も発生している<ref>[http://www.sanyo.oni.co.jp/newsk/2007/12/13/20071213010001551.html スカーフ拒む娘、父が殺害 カナダのイスラム教徒家庭]</ref>。
 
==== 女性への性暴力 ====
現代のイスラーム世界において、女性に対する性暴力の解決に対する障害はイスラームを名目としたものや、地域の慣習に基づくもの、およびそれらの混合したものなどさまざまである{{要出典|date=2018年4月}}。
 
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また、前近代イスラーム世界では、古代ローマにおける処女を殺すことへのタブーから引き継がれた俗信として「処女のまま死んだ人間はアッラーの待つ天国に行く」というものがあり、それを防ぐため処女の死刑囚は、死刑執行の前に看守に強姦させるべきだという説があった。現代でもこの俗信を信奉する人間がおり、イラン革命後のイランでは指導者ホメイニーの布告であるとして処女の死刑囚を看守に強姦させてから死刑に処した事例が報告されており、国際社会の批判を浴びている<ref>[http://www.uri.edu/artsci/wms/hughes/mhvact.htm Women's Activism for Freedom in Iran, Ladan Pardeshenas]</ref><ref>「テヘランでロリータを読む」、[[アーザル・ナフィースィー]]著</ref>。
 
=== 「ジハード」概念の問題 ===
{{Main|ジハード|イスラーム過激派|世界イスラム帝国|イスラムファシズム}}
ムスリムが“神のために苦しむこと、自分の欲望を断ち切って努力すること”をジハードというが、これは歴史的に見ても対外的侵略の口実として用いられることがあり、とりわけ預言者ムハンマドの時代から初期イスラーム帝国の時期にかけては、イスラーム共同体が全世界とその人民を支配下に置くのは宗教的義務であるとして、侵略戦争としてのジハードが行われ、現代のイスラーム世界の骨格となる領域が形成された{{要出典|date=2018年4月}}。また現在でもこのような論法により破壊行為が行われることがある。
353 ⟶ 381行目:
同時多発テロに際しても、イスラーム社会の宗教指導者たちの少なからぬ者は、「暴力はイスラームの本質ではない」として直接的・間接的にテロを批判したが、複数の宗教指導者が、テロの実行犯たちをジハードによる「殉教者」として称えるファトワーを発するなど、評価はまちまちであった。このため、特に日本などにおいてはイスラム教=(ターリバーン、アル=カイーダなど)過激派揃いと言ったイメージがあるが、先述の通り、地政学的にも数多くの解釈がある中で、これらの問題を純粋に「'''宗教的な'''」問題として一括りにすべきではないことに注意すべきである。
 
==== イスラーム戦争法の問題 ====
ジハードの名における軍事行動そのものだけでなく、それを律するイスラーム戦争法もまた、摩擦の種となることがある。
 
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ただし、当たり前ではあるが戦時国際法が国際的に制定され国家間で遵守されているのに対し、イスラム戦争法に関しては戦時国際法の及ばない紛争関係で横行しており、国際的に捕虜の権利が認められた現代においては特にイスラムにおける女性蔑視の観点が未だに取り入れられていることもあり、批判対象ともなる。
 
=== クルアーンの扱い ===
イスラーム教徒の主流派解釈によれば、クルアーンの内容はすべて神の言葉であり、すなわちクルアーンは被造物ではなく、アッラーフの一部、アッラーフのロゴスである。このことからクルアーンへの批判は、アッラーフそのもの(そしてそれを奉ずるイスラームという宗教自体)への冒涜であるという意見が存在している。
 
371 ⟶ 399行目:
非ムスリムの多くにとってクルアーンは神のロゴスではなく、自由に[[クルアーンへの批判|批判]]の対象となりうる一個の書物、人間ムハンマドの書いた本である。そのためムスリム側に見られるクルアーン崇拝とは大きなズレがある。このような両者の認識のズレが上記のような問題を引き起こすことが多々ある。
 
=== イスラム教と科学 ===
{{Main|イスラム科学|創造論|クルアーンへの批判#科学的観点}}
他の宗教の聖典同様イスラム教の聖典クルアーンにも当時の不正確な科学的知識や神話的世界観に基づく記述が散見されており、これを文字通りの意味に受け取った場合現代科学とは矛盾する面が多々ある{{要出典|date=2018年4月}}。主要なものとしては進化論の否定であり、現在でも多くのイスラーム諸国で進化論の主張は禁止されている{{要出典|date=2018年4月}}。クルアーンの記述を科学的に正しいものだとする主張なされ、これも批判の対象となっている。クルアーンに限らず、イスラームの世界観そのものを科学に結びつける試みもなされている<ref>[[パルヴェーズ・フッドボーイ]]の論説「[http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/hoodbhoy/hoodbhoy2J.html ムスリムと西洋 ─ 9 月 11 日の後]」</ref>。
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ただしこれも歴史的に見れば、中世から近世にかけてユーラシアの中でもっとも科学技術の進んだ文明のひとつはイスラーム文明であったこと、その技術や学識は現代科学の基礎であることなどからもわかるように、イスラームが本質的に他宗教より反科学的というわけではない。
 
=== イスラム教理解そのものに関する問題 ===
欧米や日本などではイスラム教の峻厳・教条的側面のみが強調され、イスラームへの偏った見方をあおっているという主張がある。これはイスラームを差別・敵視する勢力だけにとどまらず、イスラームを『理解』し、『尊重』しなければいけないと主張する勢力であっても同じであり、そこで言われる『イスラーム』とは教条的・原理主義的なものであって、それを機械的な文化相対主義に基づいて『理解』し、『尊重』すべきだと唱えるのみで、イスラーム世界に存在するさまざまな性的・文化的・社会的抑圧に宗教的・非宗教的手段を用いて抵抗するリベラルなムスリムの存在は紹介されないことが多いという意見もある。ムスリムをある特定のステレオタイプに基づいて単色の多様性のない存在として捉え、自分たちとは理解し合えない絶対的な『他者』として分類し、機械的な相対主義の適用に基づいてそれを『尊重』することが果たして真のイスラム教徒との共存に繋がるのかという疑問も提示されている。
 
== 日本とイスラム教 ==
{{複数の問題|出典の明記=2018-10|一次資料=2018-10|section=1}}
[[File:Kobe-mosque3.jpg|thumb|right|200px|神戸モスクの外観]]
[[File:東京ジャーミー 内部.jpg|thumb|right|200px|東京ジャーミイの内部]]
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日本にイスラーム教徒が初めて登場したのは、[[明治維新]]後の開国の時代になってからである。日本に滞在した[[ロシア人]]や[[インド人]]、[[トルコ人]]などの中には、イスラム教を信仰する者が少数ながら存在し、彼らによって布教されたと一般的に考えられている。特に、[[ロシア革命]]で祖国を離れた[[カザフ|カザフ人]]が、日本のイスラームに大きな役割を果たした。最初期の日本人ムスリムに、明治時代に長くインドで貿易商をしていた有賀文八郎がいる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E8%B3%80%E6%96%87%E5%85%AB%E9%83%8E-1051541 有賀文八郎]日本人名大辞典</ref><ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110002826608 アフマド有賀文八郎(阿馬土):日本におけるイスラーム法学の先駆者としての位置づけ]四戸潤弥、宗教研究 78(2), 517-539, 2004-09-30 </ref>。
日本には、1931年に日本国内初のモスクとして[[愛知県]][[名古屋市]]に建設された[[名古屋モスク]]、[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[神戸モスク]]や、[[東京都]][[渋谷区]]にあるトルコ系モスクの[[東京ジャーミイ]](当時は東京回教学院)などある。
=== 婚姻と割礼 ===
イスラーム圏の一部地域(もしくは少数の集団)の慣習として婚姻時に女性は割礼([[女性器切除]])をしないといけない。これは当事者達はイスラームの戒律と考えているかもしれないがクルアーンに根拠を持つ義務でもスンナでもない。(男性の割礼はユダヤ教からの流れでスンナ)これは40カ国以上の外国人男性との交際関係を持った経験の有り、それに関する著書を出版している作家の渡辺ひろ乃は相手に性器の一部を切ると言われて、来週切除するという打ち合わせまでしたが決心がつかなくて結婚を断念したと述べている。結婚前の女性器切除の必要性など宗教観の違いで結婚できなかったとし、国際結婚の難しさを語っている<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180117-00010023-abema-soci イスラム教徒タイ人と交際 結婚に向け「性器の一部を切る」と言われ…]abematimes 2018年1月17日</ref>。
 
=== 著名な日本在住ムスリム ===
(元ムスリム、あるいは一時的改宗者を含む。)
{{Columns-list|colwidth=15em|
*[[TWIGY]](ラッパー)
*[[ギュレチ・セリム・ユジェル]](イスラーム文化センター代表)
413 ⟶ 443行目:
*[[澤田沙葉]](シーア派信徒、神道家、[[大本教|大本]]教友)
*[[野町和嘉]](写真家。メッカの写真集を刊行)
}}
===日本のイスラーム関係の著名人===
=== 日本のイスラーム関係の著名人 ===
{{Columns-list|colwidth=15em|
*[[大川周明]]
*[[井筒俊彦]]
419 ⟶ 451行目:
*[[四王天延孝]](大日本回教協会副会長)
*[[フマユン・A・ムガール]](ジャーナリスト、評論家、経営者)
}}
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{複数の問題|出典の明記|date=2017-08|一次資料=2018-10|section=1}}
{{Reflist|group=注釈|23}}
===参照 出典 ===
{{一次資料|date=2017-08}}
{{Reflist|23}}
 
==参考文献==
イスラーム教を扱った日本語の文献は少なくなく、とくに近年は非常に活発に出版されているが、ここでは事典類、基礎的な入門書と、本項目に特に関連する文献を挙げる。
 
== 参考文献 ==
{{要出典範囲|イスラーム教を扱った日本語の文献は少なくなく、とくに近年は非常に活発に出版されている|date=2018年10月}}が、ここでは事典類、基礎的な入門書と、本項目に特に関連する文献を挙げる。
{{Columns-list|colwidth=15em|
*『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年。
*『新イスラム事典』平凡社、2002年。
442 ⟶ 474行目:
*中村廣治郎『イスラームと近代』岩波書店、1997年。
*中村廣治郎『イスラム教入門』岩波書店、1998年。
}}
 
== 関連書籍 ==
*『イスラムの建築文化』 アンリ・スチールラン著、神谷武夫訳 原書房 ISBN 4-562-02127-6
*『楽園のデザイン―イスラームの庭園文化』 ジョン・ブルックス著、神谷武夫訳 鹿島出版会 ISBN 4-306-09310-7
 
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|イスラーム|[[画像:Allah-green.svg|34px|Portal:イスラーム]]}}
{{ウィキプロジェクトリンク|イスラーム|[[File:Islam symbol plane2.svg|34px]]}}
{{関連項目過剰|date=2017年7月}}
{{Columns-list|colwidth=15em|
*[[イスラーム用語一覧]]
*ハラール
472 ⟶ 505行目:
*[[ラオスのイスラム教|ラオスにおけるイスラーム]]
*[[ロシアにおけるイスラーム]]
;暦法・紀年法
 
暦法・紀年法
* [[ヒジュラ暦]]
* [[ラマダーン]]
;歴史・事件・問題
 
 
歴史・事件・問題
* [[バドルの戦い]]
* [[クライザ族虐殺事件]]
484 ⟶ 514行目:
* [[パキスタン・モスク立てこもり事件]]
* [[ファルージャの戦闘]]
;宗教
 
 
宗教
* [[アッラーフ]]
* [[イスラム教]]
494 ⟶ 522行目:
* [[ズィンミー]]
* [[ムスリム]]
;思想・主義
 
 
思想・主義
* [[イスラム主義]]
* [[ジハード主義]]
* [[サラフィー・ジハード主義]]
;書物
 
 
書物
* [[クルアーン]]
* [[ハディース]]
;施設
 
 
施設
* [[モスク]]
;教育・学問
 
 
教育・学問
* [[イスラム科学]]
* [[イスラム教世界大学連合]]
517 ⟶ 537行目:
* [[ウラマー]]
* [[カラーム]]
;人物
 
 
人物
* [[イスラームにおけるイーサー|イエス・キリスト]]([[ナザレのイエス]])
* [[イブン・バットゥータ]]
* [[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]
* [[ユースフ・アル=カラダーウィー]]
;名前
 
 
名前
* [[人名#イスラム教圏の名前]]
;称号
 
 
称号
* [[アホン]]
;法令・規律
 
 
法令・規律
* [[イジュティハード]]
* [[ハラーム]]
* [[シャリーア]]
* [[捕虜#イスラーム]]
;被服
 
 
被服
*[[イスラム圏の女性の服装]]
** [[ブルカ]]
** [[ブルキニ]]
;金融関連
 
 
金融関連
*[[イスラム銀行]]
*[[スクーク]]
*[[タカフル]]
;国際機関
 
 
国際機関
*[[イスラム開発銀行]]
*[[イスラム協力機構]]
*{{仮リンク|国際ムスリムウラマー連盟|en|International Union of Muslim Scholars}}
}}
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Islam}}
{{Columns-list|colwidth=15em|
 
*[http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/ イスラーム文化のホームページ]
*[http://www.islamjapan.net/ イスラーム文化センター]
573 ⟶ 579行目:
*[http://www.fukuokamasjid.org/japanese/ 福岡マスジド]
*[http://www.badauk.com/sinjiru/Islam_01.html ミャンマーのイスラム教] - 仏教国におけるイスラム教
}}
{{Authority control}}
 
579 ⟶ 586行目:
[[Category:宗教の歴史]]
[[Category:中東]]
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