「北但馬地震」の版間の差分

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「復旧・復興の経過」という節を設け、豊岡町での動きを追記。
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慰霊碑の情報を追記
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この火災により、豊岡では町の半分が焼失し、城崎では実に272名(人口比で8.0%)という多数の死者が生じた。犠牲者の大半は炊事中に家屋の倒壊に巻き込まれ、脱出できないまま焼死した女性たちであり、「北但大震災の最大の犠牲者は城崎の女性である」とまで言われている。
 
一方で、震源地付近と考えられる[[港村 (兵庫県)|港村]]田結(2018年現在の豊岡市田結)では83戸中82戸が倒壊、10カ所前後から煙が上がったが、住民が救助より消火を優先したことにより延焼は食い止められ、住民約440名中7人の圧死者を出すにとどまった。なお鎮火後に救助が行われ、倒壊家屋から58人が救出されている。震災後に[[断層]]調査に来た[[地震学|地震学者]]の[[今村明恒]]も、「震災国日本における模範的な行動」と賞賛した。田結では[[1940年]](昭和15)10月に震災記念碑が建立された({{ウィキ座標|35|38|37.68|N|134|50|48.11|E|scale:10000|地図}})
 
但馬地方北部、円山川流域のこの地域は三方を山地に囲まれ、残る北部は海に隔てられているため、元々陸の孤島に近かった。地震により交通網が寸断されたために、周辺の町の[[消防団]]や[[大日本帝国陸軍|陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]]の救護隊が到着するまでに丸一日かかり、救助の初期活動が著しく滞った。そのような中で[[兵庫県立豊岡高等学校|豊岡中学校]]の生徒約500名が倒壊家屋からの生存者救助や消火活動などに従事し、臨時の救助隊として大きな働きをした。