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== 生涯 ==
天保10年(1839年)、[[下総国|下総]][[相馬郡 (下総国)|相馬郡]](現[[茨城県]][[取手市]])の[[郷士]]で大富豪の[[小島兵馬]](父)・やす(母)の四男として江戸・[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]に生まれる<ref group="注釈">父の小島兵馬は下総相馬郡の[[豪農]]で、旗本への金貸しで資産家となり、郷士身分を得た人物。江戸に出て、赤坂に豪壮な屋敷を構えた。総三はこの屋敷で生まれた。</ref>。本名は小島四郎左衛門将満。
 
四男であったが、兄らが養子に出たり事故死したりしたため、小島家の家督を継ぐことになった。[[国学]][[兵学]]を学び、若くして[[私塾]]を開いて多くの門人を抱えていたが、[[文久]]元年([[1861年]])、23歳の時、[[上野国]]、[[信濃国]]、[[出羽国|羽州]][[秋田藩]]などを遊歴し、尊王攘夷活動に身を投じて多くの同志を得た<ref name="bakumatsu_135">[[#幕末|『ビジュアル幕末1000人』「相楽総三」(2009)p.135]]</ref>文久3年([[1863年]])、小島家から5000両もの資金を与えられて関東方面の各[[義勇軍]]の組織化に尽力し、[[桃井可堂]]の[[慷慨組]]の赤城山挙兵を援助したが失敗、元治元年([[1864年]])の[[天狗党の乱]]にも参戦したが、これにも失敗して[[江戸]]に帰った<ref name="bakumatsu_135"/>
 
その後[[慶応]]2年([[1866年]])、28歳にして[[京都]]に上り志士活動を続けた際、[[西郷隆盛]]、[[大久保利通]]らと交流を持つようになり、慶応3年([[1867年]])、西郷の命を受けて、江戸近辺の[[倒幕]]運動に加わった<ref name="bakumatsu_135"/>
 
京では[[朝廷]]が幕府に見切りをつけて慶応3年10月13日そして14日には[[討幕の密勅]]が薩摩藩と[[長州藩]]に下された。13日に[[密勅]]を賜った薩摩はすぐに行動を開始する。総三は西郷隆盛の意を受けて活動を開始し、三田の薩摩藩邸を根拠地として意思を同じくする[[倒幕]]、[[尊皇攘夷]]論者の浪士を全国から多数招き入れた。彼らは薩摩藩士[[伊牟田尚平]]や[[益満休之助]]の指導を受け、放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ
 
慶応3年([[1867年]])10月、討幕の密勅を根拠として、西国と東国で同時挙兵する構想が練られていた。相楽たちは関東3か所で挙兵する計画を立てていたが、その後、[[大政奉還]]が実現したことにより密勅は取消された<ref name="gakken">『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』pp.76-77</ref>。密勅の取消により[[薩摩藩]]は江戸薩摩藩邸宛てに関東での'''攪乱工作の停止'''を指示し、大政奉還の翌日にも「'''鎮静'''」するように念を押している。にもかかわらず、相楽たちは指示をことごとく無視して[[流山]]と萩野山中で挙兵し、いずれも鎮圧されている<ref name="gakken"/>。相楽たちの軍資金は[[豪商]]を襲って得たものであった。相楽たちの挙兵は旧幕府方を刺激し、[[庄内藩]]と旧幕府軍による[[江戸薩摩藩邸の焼討事件|江戸薩摩藩邸焼き討ち事件]]に発展している<ref name="gakken"/。これが、[[鳥羽・伏見の戦い]]のきっかけとなった。なお、当時の西郷の手紙では薩摩藩邸の焼き討ちの結果に狼狽している様が残っており、西郷は浪士隊の行動を掌握し切れていなかった。
[[相楽総三]]は'''[[西郷隆盛]]'''の意を受けて活動を開始し、三田の薩摩藩邸を根拠地として意思を同じくする[[倒幕]]、[[尊皇攘夷]]論者の浪士を全国から多数招き入れた。
 
総三を始めとする28名は辛くも藩邸を脱出し、[[品川宿|品川]]沖に停泊する薩摩藩の運搬船[[翔凰丸]]に乗って[[紀伊国]]に逃れた<ref name="gakken"/>。
彼らは薩摩藩士[[伊牟田尚平]]や[[益満休之助]]の指導を受け、放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。
 
江戸を脱出した相楽たちは、慶応4年([[1868年]])1月、[[戊辰戦争]]が勃発すると、近江の[[金剛輪寺]]で赤報隊を結成し、赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、[[桑名]]への進軍を指令された<ref name="gakken"/>。しかし相楽は、東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていたが、ここでも相楽は独断で[[東山道]]に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している<ref name="gakken"/>。年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている<ref name="gakken"/>。
慶応3年([[1867年]])10月、討幕の密勅を根拠として、西国と東国で同時挙兵する構想が練られていた。相楽たちは関東3か所で挙兵する計画を立てていたが、その後、[[大政奉還]]が実現したことにより密勅は取消された<ref name="gakken">『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』 [[Gakken]] p.76~77</ref>。
 
相楽は指示に従わず独立行動を続行し、[[碓氷峠]]を目標に進軍する。相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や独断専行を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「'''偽官軍'''」と見なされることになる<ref name="gakken"/>。東山道軍は、赤報隊捕縛命令を信州諸藩に通達し、かねてより赤報隊の振る舞いに反感を抱いていた[[小諸藩]]など近隣諸藩が連合を組んで赤報隊を攻撃した。このとき相楽は、今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じて隊を留守にしていた<ref name="gakken"/>。小諸藩から赤報隊による勝手な金穀の徴収や、略奪行為を通報されたことにより、出頭した相楽は信濃国[[下諏訪宿]]で捕縛される<ref name="gakken"/>。
密勅の取消により[[薩摩藩]]は江戸薩摩藩邸宛てに関東での'''攪乱工作の停止'''を指示し、大政奉還の翌日にも「'''鎮静'''」するように念を押している。にもかかわらず、相楽たちは指示をことごとく無視して[[流山]]と萩野山中で挙兵し、いずれも鎮圧されている<ref name="gakken"/>。
 
同年3月、下諏訪で処刑。享年30。妻の照はこれを聞き、息子の河次郎を総三の姉に託し、総三の後を追って自殺した<ref name="bakumatsu_135"/>。後に総三の首級は地元出身の[[国学者]]で総三とも親交があった[[飯田武郷]]の手によって盗み出され、秘かに葬られた。
相楽たちの軍資金は[[豪商]]を襲って得たものであった。相楽たちの挙兵は旧幕府方を刺激し、[[庄内藩]]と旧幕府軍による[[江戸薩摩藩邸の焼討事件|江戸薩摩藩邸焼き討ち事件]]に発展している<ref name="gakken"/。
 
明治3年([[1870年]])、下諏訪に相楽塚(魁塚)が建立された。長い間、偽官軍の汚名を受けていたが、孫の[[木村亀太郎]]の努力により名誉が回復され、昭和3年([[1928年]])に正五位が贈られ、翌昭和4年([[1929年]])、[[靖国神社]]に合祀された。
これが、[[鳥羽・伏見の戦い]]のきっかけとなった。なお、当時の西郷の手紙では薩摩藩邸の焼き討ちの結果に狼狽している様が残っており、西郷は浪士隊の行動を掌握し切れていなかった。
 
[[青山霊園]]立山墓地に墓所がある。
総三を始めとする28名は辛くも藩邸を脱出し、[[品川宿|品川]]沖に停泊する薩摩藩の運搬船[[翔凰丸]]に乗って[[紀伊国]]に逃れた<ref name="gakken"/>。
 
==演じた俳優==
江戸を脱出した相楽たちは、慶応4年([[1868年]])1月、[[戊辰戦争]]が勃発すると、近江の[[金剛輪寺]]で赤報隊を結成し、赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、[[桑名]]への進軍を指令された<ref name="gakken"/>。
=== 映画 ===
*[[田村高廣]](『[[赤毛 (映画)|赤毛]]』([[岡本喜八]]監督)、[[1969年]])
 
=== テレビドラマ ===
しかし相楽は、東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていたが、ここでも相楽は独断で[[東山道]]に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している<ref name="gakken"/>。
*[[浜田晃]](『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』([[大河ドラマ]] / [[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])、[[1974年]])
*田中健(『命もいらず名もいらず~西郷隆盛伝』(TBS)、1977年)
*[[宮川一朗太]](『[[竜馬におまかせ!]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])、[[1996年]]) - 役名は「小島四郎」。
 
=== その他 ===
年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている<ref name="gakken"/>。
*[[井上和彦 (声優)|井上和彦]](『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』オーディオブック)
*[[喜多川拓郎]](『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』([[フジテレビジョン]]))
*[[菊池英博 (声優)|菊池英博]](『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(フジテレビジョン))
 
== 脚注 ==
相楽は指示に従わず独立行動を続行し、[[碓氷峠]]を目標に進軍する。相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や独断専行を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「'''偽官軍'''」と見なされることになる<ref name="gakken"/>。
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=== 注釈 ===
東山道軍は、赤報隊捕縛命令を信州諸藩に通達し、かねてより赤報隊の振る舞いに反感を抱いていた[[小諸藩]]など近隣諸藩が連合を組んで赤報隊を攻撃した。このとき相楽は、今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じて隊を留守にしていた<ref name="gakken"/>。
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=== 出典 ===
小諸藩から赤報隊による勝手な金穀の徴収や、略奪行為を通報されたことにより、出頭した相楽は[[下諏訪宿]]で捕縛される<ref name="gakken"/>。
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== 参考文献 ==
同年3月、下諏訪で処刑。享年30。妻の照はこれを聞き、息子の河次郎を総三の姉に託し、総三の後を追って自殺した。後に総三の首級は地元出身の[[国学者]]で総三とも親交があった[[飯田武郷]]の手によって盗み出され、秘かに葬られた。
* {{Cite book|和書|editor=歴史スペシャル編集部|year=2009|month=12|title=ビジュアル幕末1000人|publisher=[[世界文化社]]|isbn=978-4-418-09234-5|ref=幕末}}
 
*『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』 [[Gakken]]
明治3年([[1870年]])、下諏訪に相楽塚(魁塚)が建立された。長い間、偽官軍の汚名を受けていたが、孫の[[木村亀太郎]]の努力により名誉が回復され、昭和3年([[1928年]])に正五位が贈られ、翌昭和4年([[1929年]])、[[靖国神社]]に合祀された。
 
[[青山霊園]]立山墓地に墓所がある。
 
== 関連書籍 ==
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*# 2015年 ISBN 978-4-7575-4141-2
 
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==演じた俳優==
=== 映画 ===
*[[田村高廣]](『[[赤毛 (映画)|赤毛]]』([[岡本喜八]]監督)、[[1969年]])
 
=== テレビドラマ ===
*[[浜田晃]](『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』([[大河ドラマ]] / [[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])、[[1974年]])
*田中健(『命もいらず名もいらず~西郷隆盛伝』(TBS)、1977年)
*[[宮川一朗太]](『[[竜馬におまかせ!]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])、[[1996年]]) - 役名は「小島四郎」。
 
=== その他 ===
*[[井上和彦 (声優)|井上和彦]](『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』オーディオブック)
*[[喜多川拓郎]](『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』([[フジテレビジョン]]))
*[[菊池英博 (声優)|菊池英博]](『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(フジテレビジョン))
 
==脚注==
{{Reflist}}
 
{{DEFAULTSORT:さから そうそう}}
[[Category:下総国の人物]]
[[Category:武蔵国の人物]]