「平和相互銀行」の版間の差分

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=== 平和相銀解体と住銀への吸収合併 ===
[[1985年]]6月中旬、[[山口光秀]]大蔵省事務次官と[[磯田一郎]]住銀頭取は、共にゴルフに興じ、その場で磯田が平和相銀の買収の意思表示をし、表沙汰になると話が壊れるので、以後「住銀は関知しない」で通すことで両者は合意したとされる。この直後から磯田は具体的な合併工作を指示した<ref>『銀行の墓碑銘』p.486</ref>。同年8月、[[大蔵省]]の[[吉田正輝]][[銀行局]]長(奇しくも後に乱脈経営で破綻する[[兵庫銀行]]最後の頭取)の陣頭指揮のもとに、10人の検査官を動員、異例ともいえる5ヶ月間にわたる長期検査を平和相銀に実施した。この検査で、融資額半分を占める約5千億円が回収不能の[[不良債権]]であると判明する。検査終了後の[[1986年]]1月、検査結果がマスコミにリークされると<ref name="bank487">『銀行の墓碑銘』p.487</ref>、信用不安により当時1兆2000億円だった平和相銀の預金が瞬く間に8000億まで減少した
 
検査終了後の[[1986年]]1月、検査結果がマスコミにリークされたことや<ref name="bank487">『銀行の墓碑銘』p.487</ref>、内紛にもとずく訴訟合戦が加熱報道を呼んだこともあり、不安に感じた預金者は預金の引き出しに走った。このため、1985年10月から1986年2月にかけては2370億円が流出し、預金残高が1兆円を割り込む事態となった<ref>『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』p.108</ref>。同年2月6日、伊坂ら実権派の四人組は辞任。翌日、大蔵省OBだった田代一正会長が社長に就任し、平和相銀は自主再建断念を表明。同年10月1日住友銀行に吸収合併された<ref name="bank487" /><ref group="注釈">吸収後の店番は「平和相銀時代の番号+800」となり、従来からの住友店とは隔てられた800・900番台に区別関東地方の従前からの住友店は200・300番台が中心であった。</ref>。合併に先立ち、同年7月、東京地検特捜部は平和相銀事件の捜査に着手。[[神戸市]]内の山林売買融資について[[特別背任]]にあたるとして、同7月6日、伊坂ら実権派4人を[[逮捕]]、同月26日に[[起訴]]した。
 
=== その後 ===