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[[元禄]]5年([[1692年]])、[[家老]][[生駒則親]]、[[生駒正純]]、中老[[生駒玄矩]]、組頭大野忠友の重臣5名により、藩主信武の寵臣で、権勢を振るう組頭[[中山正峯]]を、公金横領による不正蓄財で訴えるも、信武により退けられる。元禄7年([[1694年]])9月29日、則親の家督を相続していた家老[[生駒則正]]と共に再び正峯を訴え、怒った信武により殺害された。同日、養子市之丞も切腹して家名断絶となる。
 
この騒動は幕府の耳に入ることとなり、信武は重臣2名の処分の申し開きが出来ずに、同年10月30日、自害してしまう。信武の家督を相続して藩主となった[[織田信休|信休]]は、幕府に騒動の責めを問われ、8000石を減封され、[[丹波国]][[丹波柏原藩|柏原藩]]に転封となった。この[[お家騒動]]は、[[宇陀崩れ]]と呼ばれる。
 
== 参考文献 ==