「アタテュルク廟」の版間の差分

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1938年のケマルの死と同時に、この丘に巨大な廟の建設計画が持ち上がった。同時に葬儀計画も進行し、これを一晩で完成させたのは[[ドイツ]]人[[建築家]]・[[ブルーノ・タウト]]だった。ケマルとタウトは互いに尊敬しあっており<ref>鈴木久雄 『ブルーノ・タウトへの旅』 新樹社、2002年6月。</ref>、アンカラ市からタウトに金品の申し出があった際も、タウトは「申し訳ありませんが、我々の時代の最も偉大な一人の死に際して私の恵まれた名誉の仕事にために金を受け取るわけにはいきません」と断っている<ref>マンフレッド・シュパイデル セゾン美術館編 『ブルーノ・タウト 1880-1938』 [[リブロポート|トレヴィル]]、1994年。</ref>。
 
建設案は[[国際建築家連合]]の規定に則った国際コンペティションで募られ、応募期間は1941年の3月1日から翌年3月2日だった。ただ、[[第二次世界大戦]]中だったためヨーロッパ人参加者が少なく、決定案はトルコ人建築家2名の連名案のものが採用された<ref name="tokai">安達・渡邉(2010)</ref>。のレリーフや彫刻像も、1952年にトルコ人アーティストに限定したコンペティションで決められた。廟にはケマルの事績がレリーフで表される一方、全体のデザインはアナトリアン様式で統一され、イスラム様式は排除されている<ref name="tokai"/>。この廟が完成するまでケマルの棺はアンカラ市街を見下ろす丘に立つ邸宅(現在の民俗学博物館)に安置されていた。トルコ国内で産出した石材のみを用いて建設され、[[1953年]][[9月1日]]に完成した。
 
ムスタファ・ケマル・アタテュルクの墓のほか、ケマルが生前に愛用していた品々や蔵書<ref group="注">考古学や言語学の本が多く含まれている。</ref><ref name="study95"/>、また各国から贈られた品々などを展示した博物館が併設されている。博物館にはケマルが活躍した[[ガリポリの戦い]]や、[[サカリヤ川の戦い]]を再現したコーナーもあり、初代大統領の数々の業績を誇っている。