「玉里島津家」の版間の差分

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== 来歴 ==
[[島津久光]]は当初、島津氏の分家の一つ[[越前家 (島津氏)|重富家]]を相続していたが、長男・茂久(後の[[島津忠義|忠義]])が兄・[[島津斉彬|斉彬]]の後嗣となった際、後見役を務めるため、重富家を四男の忠鑑([[島津珍彦|珍彦]])に譲り本家に復帰した。[[明治]]2年([[1869年]])、[[明治維新]]の功績により[[賞典禄]]10万石を賜り、明治4年([[1871年]])9月には再分家した。これが玉里島津家である。明治17年([[1884年]])7月、久光は功績により[[公爵]]位を授与され、島津氏は一族から複数の公爵家を出した数少ない例となった(他[[徳川氏]]<ref>[[徳川将軍家]][[水戸徳川家]]及び[[徳川慶喜家]]。</ref>、[[藤原氏]]<ref>旧[[摂関家]]([[近衛家]]、[[九条家]]、[[二条家]]、[[一条家]]、[[鷹司家]])、[[三条家]]、[[徳大寺家]]、[[西園寺家]]。</ref>である)。
 
久光には他にも多くの息子がおり、はじめ六男の忠経を玉里家の後嗣としていたが、久光の叙爵以前に早世したため、七男の[[島津忠済|忠済]]が玉里家を継いだ。また、五男の[[島津忠欽|忠欽]]は今和泉島津家の[[入婿|婿養子]]となっていたが、久光と同じように、息子の一人に今和泉家を継がせ、自身は玉里家の籍に移ったのち、男爵位を授与されて分家を興した。