「相馬黒光」の版間の差分

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== 来歴 ==
旧[[仙台藩]]士・星喜四郎、巳之治(みのじ)の三女として[[仙台]]に生まれた。少女期より[[横浜バンド]]出身である[[押川方義]]の教会「仙台日本基督教会」へ通い<ref name=rekishi>[http://books.google.co.jp/books?id=GYrUAQAAQBAJ&pg=PT189 「第二特集 世界に誇るしられざる東北不屈の偉人伝」]歴史読本2013年10月号</ref>、[[キリスト教]]信仰を持ち、12歳で洗礼を受けた。母みのじ 巳之治は[[漢学者]]・星雄記の三女で、五女が[[佐々城豊寿]]である。
 
小学校初等科卒業後、裁縫学校に進むが、進学を強く希望し、[[1891年]]に、学費の安かったミッションスクール[[宮城女学校]](現・[[宮城学院中学校・高等学校]])に入学が叶った<ref name="rekishi"/>。しかし、アメリカ式教育の押しつけに反発する生徒たちによる[[学校騒動|ストライキ事件]]に連座して自主退学し<ref name="rekishi"/>、横浜のフェリス英和女学校(現・[[フェリス女学院中学校・高等学校]])に転校した。しかし、[[明治女学校]]の講師で文士の[[星野天知]]と知り合ったことをきっかけに文学に傾倒し、ミッションスタイルのフェリスに飽き足らなさを感じて退学し、[[1895年]]に、星野をはじめ[[北村透谷]]、[[島崎藤村]]らが講師を務める憧れの[[明治女学校]]に転校<ref name="rekishi"/>。[[1897年]]に同校を卒業した。明治女学校在学中に島崎藤村の授業を受け、また従妹の[[佐々城信子]]を通じて[[国木田独歩]]とも交わり、文学への視野を広げた。「黒光」の号は、恩師の明治女学校教頭から与えられたペンネームで、良の性格の激しさから「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」という意味でつけられたものと言われている<ref name="rekishi"/>。
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夫とともに、[[中華まん|中華饅頭]]、[[月餅]]、インド式カリー等新製品の考案、喫茶部の新設など本業に勤しむ一方で、絵画、文学等のサロンをつくり、[[荻原碌山]]、[[中村彝]]、[[高村光太郎]]、戸張弧雁、[[木下尚江]]、[[松井須磨子]]、[[会津八一]]らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれた。また、[[岡田式静座法]]を信奉し、10年間一日も欠かさず静坐会に出席した。
 
黒光は、愛蔵の安曇野の友人である[[荻原碌山]]の支援者となり、碌山の作品『女』像は黒光をモデルとしたものだと言われている。また、亡命したインド独立運動の志士[[ラス・ビハ・ボース]]らをかくまい、保護した。[[1918年]]には、長女 俊子がボースと結婚した。そのほか、ロシアの亡命詩人[[ワシーリー・エロシェンコ]]を自宅に住まわせ面倒をみ、ロシア語を学んだりした。夫が死去した翌年の[[1955年]]、78歳で死去した。
 
子供の友人に[[朝日新聞社]]で編集局長・専務を務めた[[信夫韓一郎]]がいた。青春時代の若かりし頃、実父と折り合いが悪く家出同然の生活を送っていた信夫にとって、黒光はよき理解者であり話相手であった。信夫は超が付く程の冠婚葬祭嫌いとして知られる人物であったが、黒光の病気が悪くなると、「黒光さんの葬式だけは逃げられない」と言って礼服を作り、周囲を大いに驚かせたという。