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=== ペリーのソロ ===
この後、スティーヴ・ペリーは自身初のソロアルバム『ストリート・トーク』を発表し、さらに[[USAフォー・アフリカ]]にソロ・ミュージシャンとして参加。そしてニール・ショーンもまたソロ・プロジェクトの一環として[[ヤン・ハマー]]との合作によるアルバムを発表。メンバー同士の不仲説が囁かれる中、再びジャーニーとしての活動に戻って次のアルバム『[[Raised On Radio〜時を駆けて]]』の制作が始まった時、ロス・ヴァロリーは参加せず、スティーヴ・スミスも一部の楽曲のみの参加であった。スミスは『エスケイプ』発表当時から自身の[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]・プロジェクト "Vital Information" を開始しており、ジャーニーでの成功によって金銭面の心配が無くなったのも手伝い、いわく「本腰を入れて取り組みたかった」というジャズに没頭すべくジャーニーを脱退したと言われている(この当時子供が出来たためツアーに出たくなくなったのも脱退の理由だとスミスが後年語っている)。
 
そして[[1986年]]にリリースされたニュー・アルバム『Raised On Radio〜時を駆けて』ではスティーヴ・ペリー、ニール・ショーン、そしてジョナサン・ケインの3人だけが正式メンバーとしてクレジットされており、アルバム制作およびライヴ・ツアーにおいてはオーディション等を経て起用された臨時メンバー(詳細は後述「サポート・メンバー」の項を参照)が参加していた。このアルバムは過去最多となる5曲のヒット・シングルを生んだ。後年のライヴでも代表曲のひとつとして演奏されることが多い「トゥ・ユアセルフ(Be good to yourself)」はこのアルバムが初出である。その他、ラジオによって育まれたというメンバーそれぞれの音楽心をアルバムのテーマとしていたことから、従来にない試みとして[[サキソフォン|サックス]]を導入した楽曲(2曲目の『ポジティヴ・タッチ』)<ref>サキソフォンの演奏はダン・ハルによるもの。</ref>なども含まれていた。『Raised On Radio』アルバムは最終的には全米チャートの4位まで浮上するが、この年のライヴ・ツアーはスティーヴ・ペリーが心労を理由にリタイアを申し出たことにより約4か月で終了し、バンドとしての活動もまた休止状態に陥ってしまう。また、日本でも[[オリコンチャート|オリコン]]洋楽アルバムチャートで1986年6月9日付から4週連続1位を獲得した<ref>[http://www.sonymusic.co.jp/artist/CompilationInt/info/484806 オリコンのデータ協力による “全曲、80年代の週間オリコンチャートNo.1” の洋楽コンピが登場!]、ソニーミュージック、2017年8月8日。</ref>。
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*'''[[スティーヴ・ペリー]]''' (Steve Perry): リードボーカル、1977–86, 1996–98
*:歴代ボーカル担当の中でも、ひときわ存在感あふれるボーカリストであったことは、バンドメンバーの誰もが認めている。その常に安定した音程と極めて幅の広い声域は、スタジアム・ロック・バンドが大勢の観衆に歌声を伝えるのに、ぴったりだった。在籍中は作詞・作曲のほとんどに参加し、ジャーニーをヒット連発の黄金時代へと導いた。在籍約10年の後、1986年に発表したアルバム『レイズド・オン・レイディオ』のライヴツアーの途中で、ペリーは心労を理由に突然ジャーニーを脱退する。[[母子家庭]]に育ったペリーは母と深い絆で結ばれており、その母を失ったことが非常に大きなショックだったという。それからまた10年、1996年にリリースした再結成アルバム『トライアル・バイ・ファイアー』でペリーは一時ジャーニーに復帰する。このアルバムは大成功となり、カムバックツアーも組まれて、再結成ジャーニーの前途は洋々に見えたが、ペリーはほどなく健康上の理由からツアーの中断と延期を申し出る。ペリーはオフ中[[ハワイ]]で[[ハイキング]]をしていた際に[[股関節]]を負傷、これが歩くこともままならないほどに悪化しており、検査の結果彼は退行性骨関節疾患を患っていることが判明。ペリーは人工股関節置換手術 ([[:en:Hip replacement|en]]) の必要に迫られたが、なかなかその決断ができず、かといってその体ではツアーを再開してもステージに立つことすらおぼつかないというジレンマのなかで時間だけが浪費されていった。一方ジャーニーの他のメンバーたちは、カムバックツアーがいよいよ調子に乗り始めていた矢先にバンドの「顔」が引き蘢ってしまうという事態に業を煮やしていた。ツアーの度重なる延期を1年半にもわたって訴え続けたペリーに対し、結局他のメンバーたちは、早急に手術を受けて体を直すか、さもなければ代替ボーカルを探すことに同意するか、という[[最後通牒]]同然の二者択一を迫った。「俺は今後の人生を左右しかねない重大な健康問題に直面して苦悩しているというのに、他のメンバーたちにとってはそんなことよりもバンドの興行収入を確保することを優先するのか」というペリーの怒りと落胆が、彼にジャーニーとの決別を決意させる決定的な理由になった。そして、脱退後は実に7年間の長きにわたって公の場には一切姿を見せず、ほとんど失踪に近い状態にあったことからも、当時の彼の失望と挫折がいかに深い心の傷となったのかが窺える。なおペリーはジャーニーを脱退した後になってやっと人工股関節置換手術に臨んだ。手術は成功し、こちらの傷の方は順調に癒え、ほどなく何の障害もなく歩行やジョギングができるまでに回復している<ref>ニール・ショーン曰く、
「スティーヴの才能は認めるが、必ずしも彼である必要はない」との事。</ref>。[[2015年]]現在、表立った音楽活動はほとんど行っておらず、時折[[ロサンゼルス]]近郊で小さなライブを行っている程度で、自身のアルバムのリリースの予定もまったく無い状況にあったが、[[20152018年]][[1210月]]に実に約2325年振りとなるソロアルバム『トレイシズ』をリリースすることを公式に表明した。
 
*'''[[エインズレー・ダンバー]]''' (Aynsley Dumbar): ドラムス・パーカッション、1975–79