「アーレイ・バーク」の版間の差分

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Higlenn (会話 | 投稿記録)
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[[太平洋戦争]]開戦で、粘り強い努力によって南太平洋戦域へ転出したバークは、第43駆逐隊 (Destroyer Division 43)司令、第44駆逐隊 (Destroyer Division 44)司令、第12駆逐戦隊 (Destroyer Squadron 12)司令官となり、戦時昇進で[[大佐]]となった。[[1943年]]10月には、「リトル・ビーバーズ」として知られる第23駆逐戦隊 (Destroyer Squadron 23)の司令官となり、同年11月に[[ブーゲンビル島]]上陸作戦の支援にあたった。同戦隊は、それから4ヶ月の間に[[セント・ジョージ岬沖海戦]]など22回の戦闘に参加して、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、潜水艦1隻などを撃沈破、航空機約30機を撃墜した。
 
バークはいつも麾下の駆逐艦を最高速度で走らせていた。しかし、セント・ジョージ岬沖海戦前、合流地点へ向かう際は、彼の部隊は駆逐艦[[スペンス (駆逐艦)|スペンス]]での[[ボイラー]]事故のため本来なら出せた34[[ノット]]以上ではなく31ノットに制限されていた。このことから31ノット・バークというあだながついた<ref name="burke3">{{cite web |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=990CE6D61539F931A35752C0A960958260&sec=&spon=&pagewanted=all |title=Arleigh A. Burke Dies at 95; Naval Hero of World War II |last=McFadden |first=Robert D. |date=1996-01-02 |publisher=New York Times |accessdate=2009-02-21}}</ref>。
<!--バークは麾下の駆逐艦を当時艦隊行動できる限界とされていた30ノットを超える31ノットで走らせ、「31ノットで航行中」と打電したことから、「31ノット・バーク」と呼ばれるようになった。-->