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[[581年]]、隋が建国されると、韋沖は召還されて散騎常侍を兼ね、位は開府儀同三司に進み、安固県侯の爵位を受けた。[[楊堅|文帝]]は南汾州の胡族1000人あまりを動員して長城を築かせようとしたが、みな逃亡して去ったため、韋沖に命じて逃亡した者をなだめて呼び集めさせた。
 
韋沖は石州刺史となり、胡族の信望を集めた。母の喪に服すため辞職したが、また南寧州総管として起用された。韋沖の働きで渠帥の爨震や[[西爨]]の首領たちが南寧州の州府を訪れて、隋に帰服した。ときに兄の[[韋洸]]の子の韋伯仁が韋沖とともに南寧州に下向し、他人の妻を奪うなどの非行を重ねた。文帝はこれを聞いて激怒し、蜀王[[楊秀]]に処分を任せた。益州長史の[[元巌]]が韋沖の監督不行届を咎めたため、韋沖は甥の罪に連座して免職された。
 
数年後、韋沖は検校括州事となった。東陽の陶子定と呉州の羅慧方が乱を起こし、婺州の永康や烏程などの諸県を攻撃したので、韋沖は兵を率いて叛乱軍を撃破した。義豊県侯に改封され、検校泉州事をつとめた。