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'''沈 攸之'''(しん ゆうし、生年不詳 - [[478年]])は、[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[軍人]]。[[字]]は'''仲達'''。[[本貫]]は[[呉興郡]][[武康県]]。
 
== 経歴 ==
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[[453年]](元嘉30年)、[[劉劭 (南朝宋)|劉劭]]が[[文帝 (南朝宋)|文帝]]を殺害して帝を称し、武陵王[[孝武帝 (南朝宋)|劉駿]]が巴口で起兵すると、攸之は劉駿の下で南中郎府長史に任じられ、行参軍を兼ねた。新亭の戦いで重傷を負った。劉劭の乱が平定されると、攸之は江夏王[[劉義恭]]の下で太尉行参軍となり、平洛県五等侯の爵を受けた。劉義恭に従って大司馬行参軍に転じた。[[456年]]([[孝建]]3年)、[[揚州 (古代)|揚州]]に都部従事の官が再び置かれると、攸之は[[長江]]の北岸を管轄した。後に員外散騎侍郎に転じた。[[459年]]([[大明]]3年)、竟陵王[[劉誕 (南朝宋)|劉誕]]が広陵で反乱を起こすと、攸之は沈慶之の下で劉誕を討ち、功績を挙げたが、矢に当たって骨折した。孝武帝(劉駿)は攸之の善戦をみて、仇池の歩兵を配属した。反乱が平定されると、厚く恩賞を加えられるはずであったが、沈慶之のために少なく抑えられ、太子旅賁中郎の任に移されたため、攸之は沈慶之のことを恨んだ。[[463年]](大明7年)、母が死去したため辞職したが、葬儀が終わると、龍驤将軍・武康県令に起用された。
 
[[465年]](景和元年)、豫章王[[劉子尚]]の下で車騎中兵参軍となった。宮中に宿直して宗越・譚金らとともに[[前廃帝 (南朝宋)|前廃帝]]に寵遇され、東興県侯に封じられた。まもなく右軍将軍の号を受けた。同年([[泰始 (南朝宋)|泰始]]元年)12月、[[明帝 (南朝宋)|明帝]]が即位すると、宗越・譚金らは明帝に叛いたが、攸之は明帝に従って宮中に宿直し、[[東海郡]][[太守]]に任じられた。[[466年]](泰始2年)、明帝即位に反対する勢力が各地で起兵すると、攸之は寧朔将軍・尋陽郡太守となり、軍を率いて虎檻に拠った。前鋒都督の殷孝祖が戦死すると、攸之は前鋒の諸隊を主導するようになった。赭圻城外で反乱軍を撃破し、姥山まで追撃し、水軍を分遣して反乱側の水軍を駆逐し、胡白二城を陥落させた。まもなく仮節・輔国将軍・督前鋒諸軍事となった。反乱軍は楊公賛を派遣して攸之を誘ったが、攸之は楊公賛を斬って、封書を明帝のもとに届けた。まもなく赭圻を陥落させた。5月、使持節・督雍梁南北秦四州[[郢州]]之竟陵諸軍事・冠軍将軍・寧蛮校尉・[[雍州]][[刺史]]に任じられた。攸之は諸将を率いて濃湖を攻撃した。銭渓が陥落したとの情報を反乱軍の[[袁ギ|袁顗]]が流したため、士心は動揺したが、攸之は一喝してこれを鎮めた。銭渓では明帝側の軍が反乱軍に大勝しており、攸之は銭渓から送られた[[劉胡]]の兵士の耳や鼻を袁顗に示して、反乱軍の士気を落とさせた。攸之は攻勢を強めて反乱軍を撃破し、濃湖を平定した。反乱軍が敗走すると多くの資財を遺棄したが、攸之と[[張興世]]の部隊は一切の略奪を行わなかったことで知られた。攸之はさらに尋陽に進軍して陥落させた。9月、郢州諸軍事・前将軍・郢州刺史に転じた。赴任しないうちに、10月に中領軍となり、貞陽県公に封じられた。
 
各地の反乱が平定され、[[徐州]]刺史の[[薛安都]]も彭城で降伏を願い出た。明帝は降伏を許したが、その回答の言葉はそっけないものであった。攸之は仮節・前将軍となり、鎮軍将軍の[[張永]]とともに重装の兵を率いて薛安都に迫った。薛安都は恐れて北魏の軍を引き入れた。攸之らの軍の米船が魏軍の攻撃で転覆され、さらに運車が武原で撃破された。補給を失った攸之らはやむなく撤退を始め、そこを魏軍に乗じられて大敗した。淮陰に逃げ帰って免官され、無官のまま職任をつとめることとなった。再戦を求めたが、明帝が聞き入れなかったため、入朝して直訴したが、やはり許されず、淮陰に帰った。[[467年]](泰始3年)6月、攸之は自ら米を下邳に運び込み、下邳城の四周に深い堀を掘らせた。この年の秋、明帝の命を受けて彭城に進軍して包囲した。補給が続かず、味方に離反する者が続出した。攸之は下邳に撤退し、[[陳顕達]]が睢口で魏軍に撃破され、姜産之・高遵世らが戦没した。攸之は魏軍のさらなる追撃を受けて負傷し、陳顕達の陣営に逃げ込んだ。淮陰まで撤退し、持節を受け、仮の冠軍将軍となり、南兗州刺史を代行した。