「山内盛豊」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[永正]]7年([[1510年]])、[[山内久豊]]の子として誕生。父・久豊は尾張[[羽栗郡]]黒田の郷侍で、尾張上四郡を支配した[[守護代]]の織田伊勢守家(岩倉織田氏)に仕えた。主君の岩倉城主[[織田信安]]により、尾張黒田城代を命じられた。
 
[[天文]]23年([[1554年]])8月、岩倉町の下市場にある神明生田神社正殿の造営を行っており、棟札が現存している。この棟札は盛豊が岩倉織田氏の有力であることを物語っている<ref>山本大『山内一豊』(新人物往来社、2005年)31頁</ref>。
 
[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])、黒田城が夜討され、子・十郎と共に戦死したという資料があり、一方で、[[岩倉城 (尾張国)|岩倉城]]に逃れ、[[永禄]]2年([[1559年]])に、[[織田信長]]からの攻撃で岩倉城が落城した際([[浮野の戦い]])、戦死もしくは自害したともいわれる。