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副葬された墓誌の誌蓋には「大隋故儀同虞公墓誌」の9字が[[篆刻]]されている。墓誌の誌文には「公諱弘、字莫潘、魚国尉紇驎城人也」と記載されており、ここから被葬者の本名が虞弘といい、字を莫潘といい、魚国の尉紇驎城の出身であると知ることができる。石槨上のレリーフには、蓮台の上の[[三大聖火|聖火]]が描かれており、つまりはかれが[[ゾロアスター教]]の信徒であることを表している。虞弘は[[柔然]]国王の命を受けて[[サーサーン朝|ペルシア]]・[[吐谷渾]]・[[昭武九姓|月氏]]などの西域国家に出使し、かつての[[パルティア]]の統治した地域を巡っている。後には[[北斉]]に出使し、その後は北斉にとどまり、[[北周]]と隋の官僚をつとめた。虞弘は北周において「検校薩保府」に任じられているが、「薩保」は[[ソグド語]]の「{{transl|sog|s′rtp′w}}」からの音訳であり、もとの意味は「商隊の首領」である。当時は中原に進出した[[ソグド人]]は数多く、朝廷の設置した「薩保」の官職は中国に進出した外国人を管理する事務を担当し、これは中原地区で唯一外来語で命名された官職であった。
 
虞弘は享年59歳で[[592年]](隋の[[開皇]]12年)に死去し、埋葬された。最終官は隋の正五品の[[儀同三司]]であった。石槨上のペルシア風のレリーフから推測するに、魚国は中央アジアに位置していたということができる<ref name=太原虞弘墓 />が、それがどこにあたるのか、いまなお決定的な説は示されていない。
 
== 墓葬の概要 ==
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File:Painted Panel of the Sarcophagus of Yü Hung (detail 1).jpg|真ん中で髭の濃いひとりの男子が胡騰舞を踊っている。左辺には片手に捧果盤を捧げ持った男子
File:Painted Panel of the Sarcophagus of Yü Hung (detail 2).jpg|酒を酌み交わす2名の男子
File:Painted Panel of the Sarcophagus of Yü Hung (detail 3).jpg|左辺の男子は右手に酒杯を握り、左手にソグド酒壺をつかんでいる。右辺の男子は琵琶を演奏しているところである。両人はともに[[サーサーン朝]]風の服を着ており、頭の還有飛揚的薩珊ろにはサーサーン朝の帶、亦叫帯が跳ね上がっている。またの名を扇形長帔という
File:Painted Panel of the Sarcophagus of Yü Hung (detail 4).jpg|2名の飲酒する男子
File:Painted Panel of the Sarcophagus of Yü Hung (detail 5).jpg|羊を狩猟する男子