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[[338年]]1月、石虎は総勢17万の兵で段部討伐軍を興した。3月、慕容皝も[[石虎]]に呼応して自ら三軍を率いて[[令支県|令支]]以北の諸城を攻撃して回った。段遼がこれを攻撃しようとすると、慕容翰は「今、趙の軍団が南方に迫っております。全力を挙げて防がなければならない時に、更に燕と戦うつもりですか。燕王自らが出向いた以上、率いるのは精鋭部隊でしょう。万が一にも敗れたら、趙と戦う力など残っておりませんぞ。」と諫めたが、段蘭は怒って「我は以前、卿に謀られた。今日の災いを招いたのはその為である。卿の言葉に二度と耳を貸すつもりはない。」と返し、総力を持って出撃した。だが、慕容皝は伏兵を設けてこれを待ち受けており、段蘭は大敗を喫し、数千の兵を失い、5千世帯の民と1万を越える家畜が略奪された。
 
その頃、石虎は金台まで進軍していた。配下の支雄が進軍して薊へ入ると、段部勢力下の[[漁陽郡]]・[[上谷郡]]・[[代郡]]の諸太守は相継いで降伏し、瞬く間に四十を超える城が支雄の手に落ちた。段遼は段蘭の敗戦を聞くと、もはや石虎と1戦を交えようとは考えず、妻子親族及び豪族千戸余りを率いて密雲山へ逃亡した。その後、段遼は前燕に帰順するも、[[339年]]4月に謀叛を起こそうとした事で誅殺された。
 
[[343年]]8月、5年に及び逃亡を図っていた段蘭であったが、宇文部の大人宇文逸豆帰に捕らえられてしまい、[[後趙]]へと送られた。石虎は罪を赦し、鮮卑五千人を与えて元々の段部の本拠地であった遼西郡令支県に駐屯させた。これにより、後趙の従属化にはあったものの、段部は復興する事となった。段蘭は度々後趙に背いては石虎を煩わしたという。