「平田篤胤」の版間の差分

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文政7年([[1824年]])、門人の碧川篤眞が娘千枝と結婚して婿養子となり、平田銕胤と名乗って篤胤の後継者となった。控えめな性格の銕胤は篤胤の活動をよく支えた。
 
この時期以降の篤胤には『葛仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝伝記』『三神山余考』『天柱五嶽余論』などの著作があり、とりわけ、[[道蔵]]をはじめとする[[シナ]]や[[インド]]の経典類の考究に力を注いでいる<ref name=koyasu1/>。文政9年([[1826年]])成立の『印度蔵志』や文政10年([[1827年]])成立の『赤県太古伝』などがその代表である<ref name=koyasu1/>。これらは日本の古典や古伝承の研究をフィールドとするという意味での国学の概念を越え出ており、インドや中国の古記文献に関する研究が篤胤の著述のかなりの部分を占めることは、他の国学者には見られないところである<ref name=koyasu1/>。なお、『印度蔵志』については、[[天保]]11年([[1840年]])、篤胤は[[曹洞宗]]総本山[[永平寺]]57世の[[載庵禹隣]]にみせており、このとき禹隣禅師は篤胤の労を称えて「東華大胤居士」の法号を贈ったといわれる<ref name=sasao19>[[#笹尾|笹尾(2014)pp.19-22]]</ref>><ref group="注釈">篤胤は、[[浄土真宗]][[日蓮宗]]に対しては厳しく非難したが、[[禅宗]]に対しては比較的好意をもっていた。[[#笹尾|笹尾(2014)p.19]]</ref>。
 
=== 晩年の暦学研究、江戸追放 ===
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天保5年([[1834年]])、篤胤は水戸の史館への採用を願ったが成功しなかった<ref name=tahara1060/>。天保8年([[1837年]])、[[天保の大飢饉]]のなか、かつての塾頭[[生田万]]が[[越後国]][[柏崎市|柏崎]]で蜂起して敗死している([[生田万の乱]])。天保9年([[1838年]])、故郷久保田藩への帰参が認められた。また、この頃から篤胤の実践的な学問は地方の好学者に強く歓迎されるようになり、門人の数も大幅に増加した<ref name=jinmei475/>。
 
天保12年([[1841年]])[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]、西洋の[[グレゴリウス暦]]に基づいて[[江戸幕府]]の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府に著述差し止めと国許帰還(江戸追放)を命じられた<ref name=jinmei475/>。激しい儒教否定と尊王主義が忌避されたとも、尺座設立の運動にかかわったためともいわれる<ref name=jinmei475/><ref name=tahara1060/>。同年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]、秋田に帰着し、[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]、久保田藩より15人扶持と給金10両を受け、再び久保田藩士となった<ref name=jinmei475/><ref name=tahara1060/>><ref group="注釈">実際には借り上げの天引きによって、14人扶持、8両にすぎなかった。[[#今村|今村(1969)p.144]]</ref>。江戸の平田塾[[気吹舎]]の運営は養子の平田銕胤に委ねられた。
 
篤胤は久保田城下に住み、邸宅もあたえられ、門弟たちに国学を教えた<ref name=kinsei223/>。当時、[[菩提所]]の宗判がないと居住を許されなかったが、篤胤はこのとき生家大和田家が久保田郊外の曹洞宗寺院、正洞院の[[檀家]]であったことから同寺院を菩提所としている<ref name=sasao19/>。門人の数は秋田帰還後も増え続け、帰藩してからも70人余に達しており、そのなかには[[藩校]][[明徳館 (久保田藩)|明徳館]]の和学方取立係であった[[大友直枝]]([[平鹿郡]][[羽宇志別神社]]社家)もいた<ref name=kinsei223/>。篤胤は江戸に帰還すべく運動したが、それは成功せず、『古史伝』などの著作は未完のまま、失意のうちに天保14年([[1843年]])9月11日、久保田城下亀ノ丁で病没した<ref name=jinmei475/><ref name=kinsei223/><ref name=tahara1060/>。68歳。法号は常行院東華大壑居士<ref name=jinmei475/>。葬儀は正洞院で盛大に営まれた<ref name=sasao19/>。辞世の句は「思ふこと 一つも神に つとめ終へず 今日やまかるか あたらこの世を」。この時点で門人は553人を数えた<ref name=jinmei475/>。銕胤は、毎年正月7日に金1歩を江戸より秋田の正洞院にとどけ、篤胤の供養を怠らなかった<ref name=sasao19/>。