「徳永寿昌」の版間の差分

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『太閤記』によれば、秀次の処刑後、[[丹波国|丹波]][[亀山城]]に軟禁されていた秀次の妻子は、7月29日、(前述の同じ)寿昌の京都の邸宅に移され、8月2日、処刑場に運ばれた<ref>史料綜覧11編913冊95頁</ref>。その後、寿昌は再び秀吉に直仕した<ref name="p169"/>。
 
[[慶長]]3年([[1598年]])8月18日に秀吉が亡くなると、25日、[[五大老]]の[[徳川家康]]と[[前田利家]]は秀吉の喪を秘密にして寿昌と[[宮城豊盛]]を朝鮮に派遣した。これら代官は[[文禄・慶長の役|慶長の役]]のために在陣していた日本軍諸将と協議して、明と講和させてし、無事に全軍と撤収した<ref>史料綜覧11編913冊171頁</ref><ref name="p169"/>{{sfn|堀田|1923|pp=746-747}}{{refnest|『寛政重修諸家譜』では、朝鮮行きは[[五奉行]]等の命令であり、秀吉の遺命であると言い含められが、寿昌はそのような大命が全うできるか困惑し、家康に上奏してその指示を仰ぎ、家康の指示で現地に詳しい宮城豊盛を連れて行ったとしている{{sfn|堀田|1923|pp=746-747}}。}}。帰朝後、秀吉の遺物吉光の刀を受領した<ref name="p169"/>。
 
慶長4年([[1599年]])、家康が伏見[[向島城]]に移ると、[[井伊直政]]・[[本多忠勝]]・[[榊原康政]]らと共に橋詰の番を務めた<ref name="p747">{{harvnb|堀田|1923|p=747}}</ref>。8月、直政を奏者として家康に二心無き旨を誓う誓書を出して、名代から返書を貰った<ref name="p747"/>。