「九十九橋」の版間の差分

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明治以前(特に戦国期)に追記。
参考文献の追加とその内容の追記。写真追加。誤記修正。
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|国 = {{JPN}}
|都市 = 福井市
|水域交差物件 = 足羽川
|用途 = 道路橋
| 緯度度 = 36 |緯度分 = 3 |緯度秒 = 47.6 | 緯度NS = N
| 経度度 = 136 |経度分 = 12 |経度秒 = 41.2 | 経度EW = E
|長さ着工 = 143.9m[[1982年]]<ref name="jasbcmeikyo">[http://www.jasbc.or.jp/kyoryodb/detail.cgi?id=8516 [#名橋|福井の名梁年鑑 九十九橋 詳細データ] - 日本橋梁建設協会1986]]</ref>
|竣功 = [[1986年]]<ref name="meikyo"/>
|開通 = [[1986年]][[5月10日]]
|全長 = 143.9 m<ref name="jasbc">[http://www.jasbc.or.jp/kyoryodb/detail.cgi?id=8516 橋梁年鑑 九十九橋 詳細データ] - 日本橋梁建設協会</ref>
|最大支間長 = 48.5m<ref name="jasbc"/>
|幅 = 26m26 m{{Sfn|松村|1998}}
|高さ =
|建築家と技術者 =
|形式 = 4径間連続鋼床版桁{{Sfn|松村|1998}}
|素材 = 鉄筋コンクリート
|地図名 = Japan Fukui#Japan
|建設 = 1986年
|地図幅 = 200px
|地図説明 = 九十九橋の位置
}}
{{Ja Pref Route Sign|align=left|pref=福井|number=6}}
'''九十九橋'''(つくもばし)は、[[福井県]][[福井市]]の[[足羽川]]下流部に架かる、[[福井県道6号福井四ヶ浦線]]上にある[[橋]]。現在の橋は[[1986年]](昭和61年)に架け替えられたもの。福井市ではこの橋(あるいは足羽川)を境に橋北(きょうほく)、橋南(きょうなん)と分けられることもある。
 
== 20112018年現在の九十九橋 ==
* 開通:1986年(昭和61年)5月10日
* 形式:4径間連続鋼床版桁
* [[活荷重]]:橋格一等橋(TL-20)<ref name="meikyo"/>
* 右岸(北詰):福井県福井市中央3丁目、照手1丁目
* 左岸(南詰):福井県福井市つくも1丁目、つくも2丁目
* 長:143.9<ref [[メートル|m]]name="meikyo"/>
** 九十九橋:143.9 [[メートル|m]]
* 幅員:26 m
** つくも側取付道路:114.3 m
** 照手側取付道路:61.8 m
* 幅員:<ref name="meikyo"/>
** 九十九橋:26.0 m
** つくも側取付道路:20.0 m
** 照手側取付道路:31.5 m
* 車線数:4車線(北端部は北行に右折車線が増え計5車線)
* 路線名:都市計画道路3.4.27嶺北縦貫線<ref name="meikyo"/>
 
== 歴史 ==
[[ファイル:Unusual Views of Celebrated Bridges in the Provinces-Echizen Hukui No Hashi.jpg|thumb|250px300px|『諸国名橋奇覧 ゑちぜんふくゐの橋』]]
{{Vertical_images_list|幅=125px
|画像1=Fukui Pref. Milestone.jpg
|説明1=福井県里程元標
|画像2=Tsukumo bridge piers in Shibata-shrine.jpg
|説明2=柴田神社にある橋脚
|画像3=Tsukumo bridge piers in Fukui City History Museum.jpg
|説明3=福井市立郷土歴史博物館にある橋脚
}}
 
=== 明治以前 ===
戦国期以来、[[福井城]]下の足羽川に唯一架かる橋であった。[[1491年]]([[延徳]]3年、[[冷泉為広]]の越後下向日記には「石バ、百八間ノ橋アリ」とあり、また、水落神明社には[[1568年]]([[永禄]]11年に[[朝倉氏]][[奉行人]]が発給した橋修理の文書が存在する<ref name="kadokawa">[[#角川|角川日本地名大辞典」編纂委員会 1989]]</ref>。その後、[[柴田勝家]]の普請により、北半分が木造、南半分が石造の橋となる。[[江戸時代]]には半石半木の橋として有名になり、[[和漢三才図会]]{{Sfn|松村|1998}}<ref name="kanazawa">{{PDFlink|[https://www4.city.kanazawa.lg.jp/data/open/cnt/3/17547/6/kanazawajouka1-2.pdf 城下町金沢学術研究1第2分冊 城下町金沢の河川・用水の整備]}} - 金沢市 2010年3月31日</ref>、[[東西遊記|東遊記]]<ref name="kanazawa"/>、[[葛飾北斎]]の[[葛飾北斎#諸国名橋奇覧|諸国名橋奇覧]]{{Sfn|松村|1998}}<ref name="kanazawa"/>に記載されている。また、橋番付では「福井掛合橋」として東関脇に位置付けられている{{Sfn|松村|1998}}。
[[北陸道|北国街道]]の一部であり、南詰には小石原門が、北詰には照手門、木戸、高札場、常夜灯があった<ref name="kanazawa"/><ref name="fukui">[http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/fukuijo/kyukei22.html 福井城と城下町の風景「九十九橋」] - 福井市立郷土歴史博物館</ref>。
 
==== 半石半木の構造 ====
当時、足羽川は[[河川敷]]の北側を流れ、南側には桃林が広がっていた。流れがある北側の47[[間]](約85 m)が木造、南側の41間(約75 m)が石造であった。橋脚は木造部に14基、石造部に31基あり、径間長は木造が石造の約2.5倍ある。<ref name="museum">福井市立郷土歴史博物館 館内資料</ref>
 
半石半木の構造になったのは、以下の何れかの経緯によるものと言われている。
; 防衛面での説
: 福井の城下町に近い北側を壊し易い木造にすることで、敵の侵入をしづらくするため。{{Sfn|松村|1998}}
; 土木技術面での説
: 当時、足羽川は河川敷の北側を流れていたため、{{要出典範囲|石造にすると橋の数が多くなり、川の流れを妨げる虞があった。そこで、加工のしやすい木材で橋を架けることにより、橋の数を減らすべく、木造にしたとのこと<ref name="museum"/>|date=2018年9月}}
; 水運の便での説
: 上記のように石造では径間が狭くなるため、舟が通れるように径間を広くとれる構造にした<ref name="museum"/>{{Sfn|伊豆蔵庫喜|2018}}。
; 経済面での説
: 洪水が発生した場合、全てが石造であると全壊するおそれがある。そこで水勢の強い北側を木造にすることで、木造部分だけが流されて石造部は無事に残る。半分の木造だけであれば再建が容易である{{Sfn|松村|1998}}。また、東遊記には「石の所は千載不朽なれば、唯木の所半分の手間にて済む事なれば、別して心やすかるべし。」とある。
 
石造部の素材には[[足羽山]]で採掘された[[笏谷石]]が使用された。石材を運ぶには労力を要するので、足羽山から近い南側を石造にしたとする説もある{{Sfn|伊豆蔵庫喜|2018}}。
なお、長さが88 [[]]およそ160 m)であったことから米橋とも呼ばれていた。
 
=== 明治以降 ===
[[1874年]]([[明治]]7年)に半石半木としての最後の架け替えがあり、[[1909年]](明治42年)[[7月18日]]<ref>[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn44.html 福井県史 年表 1901-1910] - [[福井県文書館]]</ref>5径間木製アーチの[[トラス橋#ボウストリングトラス|ボウストリングトラス橋]]に架け替えられた<ref name="chuubu">[[#中部|国造りの歴史 中部の土木史 1988]]</ref>。トラス橋への架け替えの際に、橋桁の一部を用いて福井県[[道路元標|里程元標]]を作成し北詰に設置した。里程元標は後に柴田勝家の菩提寺である[[西光寺 (福井市)|西光寺]]に移される。元の位置には復元された里程元標が建てられている。石橋の橋脚は、[[福井市立郷土歴史博物館]]と[[柴田神社]]に残されている。また、柴田神社に再現された半石半木の九十九橋の高欄には、当時の石材がそのまま使用されている。
* [[1874年]](明治7年)に半石半木としての最後の架け替えがあり、[[1909年]](明治42年)木造トラス橋に架け替えられる。
 
* [[1933年]](昭和8年)に鉄筋コンクリート橋になり、[[1986年]](昭和61年)に現在の橋となる。
[[1933年]](昭和8年)[[9月19日]]<ref>[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn47.html 福井県史 年表 1931-1940] - 福井県文書館</ref>に10径間鉄筋コンクリート[[桁橋]]<ref name="chuubu"/>になり、[[1986年]](昭和61年)[[5月10日]]<ref>[http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn57.html 福井県史 年表 1986-1990] - 福井県文書館</ref>に現在の橋となる。橋上の歩道には、屋根付きでバルコニー型に張り出した休憩所が、上流側、下流側それぞれに3箇所ずつある。右岸では、橋詰下流側に復元された福井県里程原標、アプローチ途中西側の郵便局付近に「九十九橋の歴史」碑、アプローチ下の九十九橋北交差点南東角に「九十九『長寿』橋」という看板が建っている。
: 橋上の歩道には、屋根付きでバルコニー型に張り出した休憩所が、上流側、下流側それぞれに3箇所ずつある。
: 右岸では、橋詰下流側に福井県里程原標、アプローチ途中西側の郵便局付近に「九十九橋の歴史」碑、アプローチ下の九十九橋北交差点南東角に「九十九『長寿』橋」という看板が建っている。
 
== 周辺 ==
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* [[柴田勝家]]
* [[福井藩]]
* [[柴田神社]]
* [[柴田神社]] - 明治以前の半石半木の九十九橋が一部復元されている。
* [[福井市立郷土歴史博物館]]
 
== 脚注 ==
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|publisher=福井県
|year=1986
|ref=名橋
}}
* {{Cite book|和書
84 ⟶ 114行目:
|pages=135-145
|chapter=半石半木の奇橋、九十九橋
}}
* {{Cite book|和書
|editor=土木学会中部支部
|title=国造りの歴史 中部の土木史
|publisher=名古屋大学出版会
|year=1988
|date=1988-02-25
|pages=151
|ref=中部
}}
*{{Cite book|和書
94 ⟶ 133行目:
}}
* {{Cite book|和書
|lastauthor=松村
|first=博
|title=[[日本百名橋]]
|publisher=[[鹿島出版会]]
103 ⟶ 141行目:
|chapter=
|isbn=4-306-09355-7
|ref=harv
}}
* {{Cite book|和書
|author=伊豆蔵庫喜
|title=福井城下の視的考察
|publisher=FUT福井城郭研究所
|series=FUT福井城郭研究所選書
|chapter=九十九橋について
|year=2018
|pages=15-22
|isbn=
|ref=harv
}}