削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
{{記事名の制約|title=王份}}
{{特殊文字}}
'''王份'''(おう ふん、[[446年]] - [[524年]])は、[[宋 (南朝)|南朝宋]]から[[梁 (南朝)|梁]]にかけての[[政治家]]。[[字]]は季文。[[本貫]]は[[琅邪郡]][[臨沂県]]。
 
== 経歴 ==
黄門侍郎の王粋([[王僧朗景文]]・[[王貞風]]の)の子として生まれた。14歳で父母を失い、車騎主簿を初任とした。寧遠将軍・[[始安郡]]内史として出向した。[[袁粲]]が処刑されると、親しかった者でも葬儀に行こうとしなかったが、王份はひとり赴いて哀哭したので、このため名を知られた。太子中舎人に転じ、太尉属となった。[[晋安郡]]内史として出向した。中書侍郎に累進し、大司農に転じた。
 
份の兄の[[王奐]]が[[雍州]]で処刑されると、王奐の子の[[王粛 (南北朝)|王粛]]が[[北魏]]に亡命したため、王份は自らを拘束して罪を請うた。[[斉 (南朝)|斉]]の武帝[[武帝 (南朝斉)|蕭賾]]は王份の誠意を知って、罰しなかった。まもなく寧朔将軍・零陵郡内史に任じられた。黄門侍郎として召されたが、父の最終官であったことを理由に、固辞して受けず、秘書監に転じた。
 
[[天監]]初年、散騎常侍の位を受け、歩兵校尉・起部尚書を兼ねた。[[蕭衍]]がかつて宴席で「朕は有をなすか無をなすか」と群臣に訊ねたことがあった。王份が「陛下は万物に応じて有をなし、体は理に至って無をなします」と答えたため、蕭衍は褒めたたえた。[[宣城郡]][[太守]]として出向し、[[呉郡]]太守に転じた。寧朔将軍・北中郎豫章王長史・蘭陵郡太守となり、行南徐府州事をつとめた。太常卿・太子右率・散騎常侍に転じ、東宮に仕え、金紫光禄大夫の位を受けた。また智武将軍・南康王長史となった。入朝して散騎常侍・金紫光禄大夫・南徐州大中正となった。尚書左僕射に転じ、まもなく[[侍中]]の位を加えられた。
13行目:
 
== 子女 ==
*[[王琳 (琅邪王氏)|王琳]](字は孝璋、駙馬都尉、明威将軍・東陽郡太守、司徒左長史)
 
== 伝記資料 ==