「杉浦正健」の版間の差分

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}}</ref><ref>『[[#あの戦争|あの戦争は何だったのか]]』 214頁。</ref>。[[1955年]]、[[東京大学本郷地区キャンパス|本郷]]に進むと、社会教育家の[[穂積五一]]が主催していた「新星学寮」に入寮。アジア各国からの留学生の世話を始める<ref name="mofa">[http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/13/ear_0607.html 日経新聞主催「アジアの未来」 杉浦副大臣講演 平成13年6月7日 | 外務省ホームページ]</ref>。
 
[[1957年]]3月、穂積の指導のもと東大アジア学生友好会を結成<ref name="mofa" /><ref name="abk">[http://www.abk.or.jp/association/history.html 沿革|公益財団法人 アジア学生文化協会]</ref>。同年に大学を卒業し[[川崎製鉄]]に入社。しかしするも、穂積に呼び戻され1年で退職<ref>{{Cite book|和書
|author = 杉浦正健編著
|year = 1996-2-1
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|publisher = シーダー企画
|page = 382-383
}}</ref>。1977年10月10日没<ref>[https://asanuma-law.jp/ 浅沼澄次略年譜 | 浅沼・杉浦法律事務所]</ref>。}}。これが縁となり「跡継ぎ」のような形で34歳から[[旧司法試験|司法試験]]の勉強を始める<ref>『[[#あの戦争|あの戦争は何だったのか]]』 217頁。</ref>。[[1972年]]、[[弁護士]]登録。[[1982年]]、[[第一東京弁護士会]]副会長に就任。
 
杉浦が[[1985年]]、国会議員への転身を考えたのは[[1985年]]であった。始め、[[福田赳夫]]と[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]時代の親友だった[[弁理士]]の谷山輝雄が福田に杉浦を推薦する<ref>{{Cite book|和書
|author = 杉浦正健編著
|year = 1996-2-1
79行目:
|publisher = シーダー企画
|page = 47-48
}}</ref>。一方しかし、[[愛知県第4区_(中選挙区)|旧愛知4区]]には[[清和政策研究会|福田派]]の重鎮、[[中野四郎]]元[[国土庁]]長官がいた。義父の浅沼澄次が第一高等学校・東大で同期として親しかったこともあり<ref>『[[#あの戦争|あの戦争は何だったのか]]』 135頁。</ref>、福田とは浅からぬ縁があったが、中野の存在はいかんともしがたかった。
 
そんな中、[[7月10日]]に中野が[[渋谷区]]の自宅で階段を踏みはずして入院。[[7月16日]]に容態が悪化し、翌日、酸素吸入器と人工蘇生器がつけられる<ref>『[[朝日新聞]]』1987年4月2日、東海総合面。</ref>。同年[[10月12日]]、杉浦は衆院選に向けた事務所を開設<ref>『朝日新聞』1987年4月22日、東海総合面。</ref>。[[10月21日]]、中野は急性心不全によりこの世を去った。
 
同年[[11月6日]]、第1回後継者選考委員会が開かれるも、後継候補として名前が挙がったのは知立市選出の[[愛知県議会|県議]]の[[鈴木政二]]、中野の[[公設秘書|第一秘書]]の中原義正、[[志賀重昂]]の孫で前[[特許庁長官]]の志賀学<ref>『朝日新聞』1987年4月1日、東海総合面。</ref>、安城市選出の県議の[[杉浦正行]]の4名であった<ref>『朝日新聞』1987年4月11日、4月14日、東海総合面。</ref>。ことに後援会最高顧問の鈴木熊次郎(中日本鋳工株式会社会長)は杉浦正行を強く推していた<ref>『朝日新聞』1987年4月7日、東海総合面。</ref>。岡崎市長の中根鎭夫は当初このとき、[[近畿財務局]]総務部長の谷川憲三の擁立に動いていたが失敗に終わっている<ref name="asahi19870423">『朝日新聞』1987年4月23日、東海総合面。</ref>。[[12月19日]]の幹部総会において、[[稲垣実男]]の選挙参謀である杉浦正行が候補から脱落。さらに[[1986年]]1月、岡崎市出身の志賀が候補から脱落。[[2月2日]]、岡崎は[[清和政策研究会|福田派]]の市議が5人しかいなかったが、自民党岡崎支部は杉浦正健の推薦を決定。[[2月6日]]、[[清和政策研究会|福田派]]幹部会で鈴木政二が中野の後継者に内定する。ところがその8日後に鈴木は内定を返上。このとき福田赳夫は鈴木熊次郎ら幹部の面々を東京に招き、「杉浦君は必ずものになる。杉浦君を頼む」と両手をついて頭を下げたと言われている<ref name="washite-382-383" />。[[3月19日]]、ついに杉浦が後継者に内定した<ref>『朝日新聞』1987年4月25日、東海総合面。</ref>。選挙の軍資金として杉浦は3億円を用意した。自己資金は預金と援助のほか東京に持っていたマンションを売り払って2億円。残りは家を担保に銀行から5千万円、弁護士仲間から「有る時払い」で5千万円、それぞれ借りた<ref name="CHUNICHI19890129">『[[中日新聞]]』1989年1月29日付朝刊、1面、「カネと政治家 疲弊を切る (1) “1年生”でも経費1億円」。</ref>。
 
=== 衆議院議員に初当選 ===
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* 1986年に初当選した清和会所属の[[尾形智矩]]は1期しか衆議院議員を務めなかったが、杉浦と尾形は、尾形が亡くなる2008年まで親しい間柄だった。
* [[児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律]]の提案者で、「買春」を初めて「かいしゅん」と読んだ人物でもある<ref>[http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/uraomote/011.html かいしゅん・回春の買春は改悛すべき] NHK放送文化研究所「ことばウラ・オモテ」</ref>。
* 2012年128、元[[第46回衆議院議員選挙]]では、[[愛知県第12区務省|愛知12区]]から出馬した[[青山周平 (政治家)|青山周平総務]]官僚選対事務長を務めた。しかし青山の対立候補である[[重徳和彦]]に出馬を促したのは杉浦であった。同年8月、杉浦は重徳に向かって「『古い自民党でなく新しい政治を作るんだ』と堂々と出馬すればいい。自分が重徳君と同じ歳だったら同じ行動をとっていただろう」と言っ述べ、次期衆院選への出馬を促しという<ref>[http://www.shigetoku.jp/archives/2012-12.html しげとく和彦(重徳和彦):2012年12月]</ref>{{Refnest|group="注"|2011。同12月に行われた[[2011年愛知県知事選挙|愛知県知事第46回衆議院議員総選挙]]では自民党推薦で立候補した経験を持つ公認の[[重徳和彦青山周平 (政治家)|青山周平]]は、の選対事務長を務めた<ref>『東海愛知新聞』2012年9122814日、1面。</ref>。同じ愛知12区で[[日本維新の会 _(2012-2014)|日本維新の会]]の結党に参画。愛知12区でから出馬した重徳は青山周平に敗れるが、比例復活で当選した。}}
 
== 主な所属団体・議員連盟 ==
198行目:
|isbn = 978-4160088207
}}
** (英訳版) [http://asanuma-law.jp/Cover-What-was.pdf Sugiura, Seiken, translated by Keiko Atsumi, ''What Was "That War" All About?'' (January, 2018).]
 
== 外部リンク ==