「オスカー・ピーターソン」の版間の差分

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== バイオグラフィ ==
西インド諸島出身の移民家庭に生まれる。5歳より父から[[ピアノ]]と[[トランペット]]を習い始める。しかしが、7歳の時[[結核]]にかかり、ピアノに専念するようになる。[[アート・テイタム]]や[[ナット・キング・コール]]等の影響を受けた。
 
1949年に、[[ノーマン・グランツ]]の手により、[[ニューヨーク]]市の[[カーネギー・ホール]]にてアメリカに進出した。[[レイ・ブラウン]]、[[ルイ・アームストロング]]、[[エラ・フィッツジェラルド]]、[[ジョー・パス]]、[[カウント・ベイシー]]や[[スタン・ゲッツ]]等の著名なアーティストと共演した。1959年にグランツが創設した[[ヴァーヴ・レコード]]に籍を置き、重要なキャリアを築いた。1965年~1971年にはドイツの[[MPSレコード]]に籍を置き、彼の経歴の中でも一際モダンな作風に挑戦している。1973年にはグランツは[[パブロ・レコード]]を創設し、このレーベルにおいても幾つかの名盤を残した。
 
1993年に[[脳梗塞]]で倒れ、歩く事が出来なくなるもリハビリを重ねた。その後、まだ左手が不自由ではあったが再びピアノを弾けるようになった。
その後、まだ左手が不自由ではあったが再びピアノを弾けるようになった。
 
1999年に第11回[[高松宮殿下記念世界文化賞]](日本美術協会主催)を受賞。左手が不自由ながらも授賞式でピアノを披露する。
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2005年8月15日に80歳の誕生日を迎え、[[トロント]]の[[HMV]]において祝賀会が開かれた。
 
2007年12月23日夜、腎不全によってトロント郊外の[[ミシサガ (オンタリオ州)|ミシサガ市]]の自宅で死去した。82歳。
 
== ディスコグラフィ ==