削除された内容 追加された内容
内容追加
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
11行目:
 
弟子には山東鶏告(さんとうけいこう)・山東唐洲らがいるが、後に[[曲亭馬琴]]の入門を断ったように弟子は取らなくなった。
 
仲間と飲み食いをする際に当時は代表者1名が総額を支払うことが一般的であったのに対し、総額を出席者の頭数で均等に割って勘定を済ませることから、そのやり方は「'''京伝勘定'''」と呼ばれた。こんにち[[割り勘|割り前勘定(割り勘)]]と呼ばれる支払い精算方式の祖と呼ばれる。山東京伝の友人でもあった[[曲亭馬琴]]は、山東京伝が吝嗇であったり、金を惜しんだからではなく、仲間との間の金銭によるもつれを厭ったこと、淡交を望んだためだと書き記している<ref>{{cite book|和書|title=曲亭馬琴遺稿|author=森田誠吾|publisher=[[新潮社]]|year=1981|page=208}}</ref>。
 
1816年死去。東京都墨田区両国の[[回向院]]に「岩瀬醒墓」(京伝)・「岩瀬百樹之墓」(京山)、「岩瀬氏之墓」(伝左衛門)がある<ref>佐藤至子 2009年 2ページ</ref>。法名は弁誉智海京伝信士。京伝が没した翌年、弟の京山が[[浅草寺]]境内に「机塚」の碑を建立した。