「交趾郡」の版間の差分

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古くはこの地方の住民の[[足]]が大変大きく、真っ直ぐに立つと左右両足の[[指]](趾)が交差するからだとされて来たが、全く根拠が無く、その地名の由来は不詳である。その呼称が登場する最古の記録は[[秦]]がこの地域に進出して以後である。
 
前漢の[[武帝 (漢)|武帝]]が[[南越]]を征服して置いた9つの郡の一つであり、当初は羸𨻻・安定・苟屚・泠・曲昜・北帯・稽徐・西于・龍編・朱䳒の10[[県]]により構成されていた。郡治についてははっきりしない。『[[晋書]]』、『[[元和郡県図志]]』は龍編県とし、『[[水経注]]』引『交州外域記』は麋泠県とし、『[[大越史記全書]]』、『大越地輿全編』引『[[漢書]]』師古注は羸𨻻県とする。その後の歴代政権に継承され、[[後漢]]末期から[[ (三国)|呉]]初期にかけては[[交州]]に属して[[士燮 (交阯太守)|士燮]]が群雄の一人として割拠した。その後、行政区分の変更によって県の数に変動が生じたが、[[隋]]の時代に交趾郡の郡治(郡の役所の所在地)として'''交趾県'''が設置された。その後唐の初期に行政区分の改革に伴い、交州が交趾郡の領域に縮小・統合されて以後、'''交州'''と称した。交州のもとでも唐の末期に移転されるまで交趾県に交州の[[州治]]が置かれていた。
 
[[名古屋コーチン]]など、鶏の品種名に使われるコーチンはこの地名に由来するとされる。