「高木長之助」の版間の差分

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[[千葉県]]は[[房総半島]]の先端、[[安房郡]][[白浜町 (千葉県)|白浜町]](現・[[南房総市]])にて、半農半漁の家に生まれる<ref name="近代柔道199312">{{Cite news|author=|authorlink=|url=|title = 名選手の技と技術(連続写真)大外刈り&釣り込み腰 -高木長之助-|newspaper = [[近代柔道]](1993年12月号)|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|date = 1993-12-20|accessdate=}}</ref>。[[海]]に面した土地柄のため幼少時の遊びはもっぱら海の[[スキンダイビング|素もぐり]]で、[[アワビ]]・[[サザエ]]等の海産物を獲っては食べるというのが日課だった<ref name="近代柔道199312"/>。
 
[[小学校]]では[[水泳]]をやっていたがレギュラーにはなれず、町立白浜中学校への入学と同時に[[柔道部]]に入部。この頃のクラブ活動は[[野球]]・水泳・[[柔道]]の3つが主流で、当時[[身長]]160cm・[[体重]]60kgの高木は、その大柄な体格から柔道部に勧誘されたのがきっかけだった<ref name="近代柔道199312"/>。名伯楽として名高い三田悦克が率いるこの柔道部は当時千葉県大会で連覇を繰り返す強豪で<ref name="房日新聞20080517">{{Cite news|author=|authorlink=|url=|title= 柔道王国・安房支えた第一人者 名師範・三田悦克 教え子らが追悼本|newspaper = 房日新聞|publisher = 房州日日新聞社|date = 2008-05-17|accessdate=}}</ref>、高木が後々まで“指導者としての原点”と語る白浜中学での3年間の稽古は、[[{{仮リンク|サーキットトレーニング]]|en|Circuit training}}等も取り入れた、当時の練習方法としては非常に画期的なものだった<ref name="近代柔道199312"/>。
 
[[1964年]]に中学卒業後は[[千葉県立安房高等学校|県立安房高校]]へ進学。2年先輩に後に世界チャンピオンとなる[[篠巻政利]]がおり、毎朝6時に起きては、朝練で篠巻を相手に500本の打ち込みをこなした<ref name="近代柔道199312"/>。1日2時間程度の柔道部での練習では飽き足らず、帰宅してからも自主的に走ったり、手作りの[[バーベル]]を上げるなどして柔道家としての素地を築いていった<ref name="近代柔道200409">{{Cite news|author = 布施鋼治|authorlink=|url=|title = 転機-あの試合、あの言葉 第31回-高木長之助-|newspaper = [[近代柔道]](2004年9月号)、40-43頁|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]|date = 2004-09-20|accessdate=}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|稽古の虫となって[[柔道]]に打ち込んだ当時、[[母親]]が周囲に「息子を[[柔道]]に奪われた」と嘆いていたのを高木は後日知ったという<ref name="近代柔道200409"/>。}}。
 
高校3年次には[[昭和41年度全国高等学校総合体育大会|青森インターハイ]]へ出場。重量級の優勝候補の1人に数えれながらも、団体・個人とも結果を残す事はできず。一方、千葉県代表の一員として出場した同年の[[国民体育大会|国体]]では千葉県チームの準優勝に貢献した。