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1971年は2人にとって重要な年となった。これまでの2人の経歴とはかけ離れた[[サスペンス]]映画『[[白い肌の異常な夜]]』を発表する。興行的には失敗するも、シーゲルはこの作品を最高傑作と評している。そして大ヒット作である『[[ダーティハリー]]』が公開され、2人の名が世界に轟くこととなった。この年にはイーストウッドも初監督作品である『[[恐怖のメロディ]]』を発表し、バーのマスター役としてシーゲルが出演している。
 
70年代には銀行強盗とマフィアの対決を描いた『突破口!』、[[アルフレッド・ヒッチコック|ヒッチコック]]が手掛けたサスペンスを彷彿させるスパイアクションの『ドラブル』、[[ジョン・ウェイン]]の遺作となった西部劇『[[ラスト・シューティスト]]』、薬物催眠による東西対立を描いた『テレフォン』などの作品を撮り、同世代の[[ロバート・アルドリッチ]]や[[リチャード・フライシャー]]らと共に1970年代のアクション映画を牽引した。『突破口!』では[[卓球]]をするシーンでワンカット登場している(実際に得意としていた)。1979年の『[[アルカトラズからの脱出]]』はイーストウッドとの最後の作品となった。
 
1980年代にはプロデューサーとの軋轢により、思う様に製作が進まない状況になる。遺作となった『ジンクス』では、第2班監督として弟子であるペキンパーが付いて、シーゲルを励ます形となったが、この2年後にペキンパーは死去した。映画界から距離を置いたシーゲルは、自伝の執筆に力を注ぎ、1991年4月20日、癌により死去する。シーゲルのいま1人の弟子と呼べるイーストウッドは、『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』を、いま一人の師である[[セルジオ・レオーネ]]と共に、シーゲルに捧げている。