「中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議」の版間の差分

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[[1976年]][[10月6日]]、華国鋒[[中国共産党中央委員会|党中央委員会]]第一副主席兼[[国務院総理]]は、[[葉剣英]](党中央委員会副主席兼[[中華人民共和国国防部|国防部長]]、元帥)、[[王震]]([[中華人民共和国国務院|国務院]]副総理)、[[李先念]](国務院副総理)、[[汪東興]]([[中国共産党中央弁公庁|党中央弁公庁]]主任)らの協力を得て、[[江青]]ら[[四人組]]を逮捕、翌日の[[中国共産党中央政治局|党中央政治局]]会議で[[中国共産党中央委員会主席|党中央委員会主席]]兼[[中国共産党中央軍事委員会|党中央軍事委員会主席]]に選出された。しかし、華国鋒は[[文化大革命]]を推進した左派と実務者の右派との間のバランスを考慮して毛沢東の後継に選ばれていたに過ぎず、その政権基盤は弱かった。故に華国鋒は「'''毛主席の決定した事は支持しすべて変えず、毛主席の指示変えないすべて従う'''」とする「'''[[二つのすべて]]'''」を提起し、毛沢東の意向を盾に地位の安定を図った。
 
このため、文革路線はさらに継続することになり、文革中に失脚した古参幹部、特に[[四五天安門事件]]の首謀者として失脚した鄧小平の名誉回復を阻むことになった。毛沢東路線の見直しを期待していた葉剣英や[[陳雲]]、軍部は公然と華国鋒批判と鄧小平支持を表明、華国鋒は[[1977年]]7月の第10期3中全会において、鄧小平を[[中国共産党中央政治局常務委員会|党中央政治局常務委員]]、党中央委員会副主席、党中央軍事委員会副主席兼[[中国人民解放軍]]総参謀長、国務院常務副総理に復帰させざるを得なくなった。