「小野忠明」の版間の差分

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安房国(現[[千葉県]][[南房総市]])に生まれる。はじめ[[里見義康]]に仕え[[天正]]17年([[1589年]])11月、里見家の家来として万喜城攻撃に参加。[[正木時茂 (里見義頼子)|正木時堯]](正木大膳)と一騎討ちをしたが決しなかったと『里見代々記』にある。その後剣豪[[伊東一刀斎|伊藤一刀斎]]が上総を訪れたおりに試合を申し込むが敗れて弟子入りする。その翌年再び上総を訪れた一刀斎より誘いを受けて,里見家を出奔して諸国修行の旅に随行する。
 
一刀斎の元には既に [[小野善鬼|善鬼]](姓不詳。小野姓とするのは俗説)という兄弟子がいたが、やがて一刀斎の命で後継者の座をかけた決闘を行い、総州の相馬[[小金原]]でこれを倒した<ref>『武芸小伝』によるとかねてから善鬼を殺害したいと思っていた一刀斎は、事前に秘術'''夢想剣'''の極意を授け典膳(忠明)の勝利を助けたとある。</ref>。決闘の後、一刀斎は自身の差料[[瓶割刀]]を授けて姿を消し、以後の消息は不明という。その後は一度故郷に戻ったのちに江戸に移り、駿河台あるいは本郷に居住したという(『武芸小伝』)。[[文禄]]2年([[1593年]])江戸近郊の膝折村で人を殺して民家に立てこもった剣術者を倒したことで[[徳川家康]]に認められ、200石<ref>石高は『寛政重修諸家譜』による。『武芸小伝』では300石とある。</ref>の禄高を給されて旗本となる<ref>『徳川実紀』・『武芸小伝』による。徳川家への仕官の経緯は諸説あり、『[[耳嚢]]』『一刀流口伝書』では一刀斎の推薦によるものとしており、また善鬼が自分を差し置いて推挙された典膳(忠明)を妬んだことが、小金原の決闘に至る原因となったとしている。その他『一刀流三祖伝』では先に徳川家に仕官していた[[柳生宗矩]]と試合ってこれを圧倒したことで宗矩の推薦を得たとするが、実際に宗矩が仕官したのは文禄3年(1594年)と忠明より遅い。</ref>。徳川家では[[徳川秀忠]]付となって剣術を指南した。このとき姓を神子上から改め、母方の旧姓である小野とした。またのちに秀忠が二代将軍に就任したことで、一刀流は[[柳生新陰流]]と並ぶ将軍家指南役として大いに栄えた。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では秀忠に従って[[上田城]]攻防戦で活躍し、[[上田七本槍]]と称されたが、この時軍令違反で処罰され、身は[[真田信之]]預かりとなり、[[上野国]][[吾妻]]で蟄居を命じられている。その後、[[結城秀康]]の周旋で罪を許され、[[下総国]][[下埴生郡|埴生郡]]の本領に加え、[[上総国]]内に加増を受け、都合600石となった。その後一刀流の秘事を秀忠に伝授した褒美として、備前勝光の脇差、御料の羽織、黄金等を恩寵され、さらに秀忠から一字を賜り'''忠明'''と改名した(『寛政重修諸家譜』)。