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| 死没 =[[文禄]]3年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]([[1594年]][[12月4日]])
| 改名 =
| 別名 =氏繁<ref name="sig"/>、氏知<ref name="p164"/>、政信<ref name="se"/>、永則<ref name="si">{{Citation |和書|last=太田|first=亮|editor=|year =1936|chapter=|title =姓氏家系大辞典|volume=第2|publisher =姓氏家系大辞典刊行会|url={{NDLDC|1130938/1076}} 国立国会図書館デジタルコレクション|page=3962}}</ref><br/>[[仮名 (通称)|通称]]:三郎四郎、民部少輔
| 諡号 =
| 神号 =
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| 官位 =民部少輔
| 幕府 =
| 主君 =[[織田信長]]→[[豊臣秀吉]]
| 藩 =
| 氏族 =戸田氏(非三河系)
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| 特記事項 =
}}
'''戸田 勝隆'''(とだ かつたか)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[伊予国|伊予]][[大洲城]](地蔵ヶ岳城)主。[[豊臣秀吉]]の家臣。[[仮名 (通称)|通称]]は三郎四郎
== 生涯 ==
出自不明{{refnest|勝隆の出身は異説が多く定説を欠く。『聚楽武鑑』は藤原姓、『豊臣名臣鑑』は三保戸田の後胤とする<ref>{{Citation |和書| last=瀬戸町誌編纂委員会 |first=|year =1985| title =瀬戸町誌 |publisher =[[瀬戸町 (愛媛県)|瀬戸町]]}}</ref>。紀行文集『[[街道をゆく]]』で[[司馬遼太郎]]は勝隆は「美濃戸田氏の支流ではないか」と推測している
初め[[織田信長]]に仕え{{refnest|『伯耆合戦記』に信長が戸田を[[伯耆国|伯耆]][[鎌倉山城]]の城主となすとあるが、真偽不明<ref name="si"/>。}}、その後、織田家の臣・羽柴秀吉(後の[[豊臣秀吉]])の家臣となった。秀吉の家臣としては古参の部類になる{{sfn|桑田|1971|p=75}}。
[[天正]]元年([[1573年]])、近江長浜で250貫文を与えられ、[[黄母衣衆|大母衣衆]]に選ばれた<ref name="p164"/>。天正5年([[1577年]])
天正12年(1584年)、[[小牧・長久手の戦い|小牧の役]]に従軍<ref name="p164"/>。天正13年([[1585年]])、[[四国攻め#羽柴秀吉の四国攻め(四国の役)|四国の役]]では[[阿波国|阿波]][[木津城]]の攻撃に参加<ref name="p164"/>。
また勝隆は近江の検地奉行や城割奉行なども務めている。[[千利休]]や[[津田宗及]]主催の茶会にも名を連ねた。
四国平定後は、天正15年([[1587年]])に[[伊予国]]大洲7万石与えられるとともに、[[蔵入地]]である喜多郡土谷山村の代官職に任じられた。同じく同年9月5日に伊予[[今治]]を与えられた[[福島正則]]は、秀吉からの朱印状において「伊予は九州・中国之かなめ所」として勝隆との連携を指示されている。[[大洲城|地蔵ヶ岳城]]を主城とし、[[黒瀬城]](城代:岩城小右衛門尉信家)、板島丸串城(城代:戸田左衛門信種<ref>戸田与左衛門とも。</ref>)を領した。特に板島丸串城を改修して現在の[[宇和島城]]の概形を造ったのは勝隆である。蔵入地の下代官には、河野氏旧臣で現在も宗意原という地名に名を残す当地の土豪・豪商の[[武井宗意]]を任命した。また、伊予入りと前後して能島村上氏の支配下にあった忽那諸島二神島の検地等について書状を出すなど、[[浅野長政]]・[[福島正則]]・[[増田長盛]]らとともに、[[九州平定]]に向けて[[瀬戸内海]]の海上交通を担う豊臣政権の吏僚としても活動している。▼
天正15年([[1587年]])、[[九州平定|九州の役]]では福島正則・[[生駒親正]]・[[蜂須賀家政]]ら四国諸大名と共に海上輸送を担った。同役の途中である2月12日、勝隆は伊予[[宇和郡]][[板島丸串城]]7万石に封じられた<ref name="p164"/>。また[[蔵入地]]である喜多郡土谷山村の代官職にも任じられた。同役の終了後である同年9月5日に伊予[[今治]]を与えられた[[福島正則]]は、秀吉からの朱印状において「伊予は九州・中国之かなめ所」として勝隆との連携を指示されている。戦後は[[黒田孝高]]、[[毛利勝信]]らと検地に加わり、7月に発生した[[肥後国人一揆]]にも援軍に赴いた。
しかし、その伊予支配は当初より民衆の反撥を買い、圧政に対してすぐに大[[一揆]]が起こった。一揆軍は黒瀬・丸串両城を襲ったが、これに対抗できなかった。勝隆は旧領主の[[西園寺氏]]の旧臣で在野で隠居していた[[土居清良]]の助力で何とか鎮圧したが、旧主・[[西園寺公広]]が一揆を唆したのではないかと恐れ、抹殺を決意するに至った。[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]、勝隆は贈物を送って懐柔した上で、[[毛利氏]]の斡旋によって秀吉が本領安堵したという偽の朱印状を餌に自邸に呼びつけた。公広はこれを怪しみ、翌9日、10名の護衛を連れてきたが、供と離されて襲撃された。公広は覚悟を決めて戸田駿河守以下9名を返り討ちにしたが、包囲されて自刃して果てた。公広の護衛は主人の死を知って激怒し、50余人を斬り死に殉じた。これによって西園寺氏の勢力は一掃され、伊予の旧領主である[[伊予宇都宮氏]]の勢力も掃討された<ref>こうした勝隆の所業について、[[司馬遼太郎]]は紀行文集『[[街道をゆく]]』において「南伊予・宇和島にやってきた『近世』というのは殺戮者の顔を持ち、その事業はひたすらに人を殺すことであった」と感想を述べている。同様の事例は、[[黒田孝高]]・[[黒田長政]]父子による[[豊前宇都宮氏]]謀殺のように、豊臣系大名の九州入りにおいても見られ、[[戦国大名]]や[[国人]]を従え、豊臣政権を成立させるプロセスにおいて実行された一般的な施策とも言えるため、これらの行為を勝隆個人の悪政と単純に評価するとすれば、問題がある。</ref>。▼
勝隆の伊予支配は、当初より民衆・国衆の反撥を買った。勝隆に新恩が与えられた後も、まだ旧領主の[[西園寺公広]]は[[毛利氏]]を介して秀吉に対して所領安堵の嘆願を続けていたからである。6月、頼みとした[[小早川隆景]]が筑前に移封されると、8月、公広・[[土居清良]]・[[勧修寺基詮]]・[[法華津前延]]以外の[[西園寺氏]]の旧臣たちは38の城からすべて下城するように命じられた{{sfn|長山|1935|p=225}}。12月には公広も黒瀬城を去って、九島の願成寺に入った{{sfn|長山|1935|p=225}}。
以後、多く人質を出させ、武芸に秀でた者は探し出して斬り、南伊予の土民の勢力は削がれ、一揆勢力は未然に削がれた。寺領は没収され、建物は破却され、貢物を収めさせるなど、苛政は極めた。一方、有力武将であった土居清良は千石で召し抱えると請われたが、彼は固辞した。[[法華津前延]]は200石、([[喜多郡]]の豪族)[[曾根宣高]]の子・[[曾根高房|高房]]は300石が与えられた。他方で、旧織田家家臣で秀吉に背いて処刑されるところを勝隆が身を預かっていた[[安見勝之|安見右近]]を、砲術に優れているということで3,000石で雇い、[[河後森城]]に入れた。▼
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『武家事紀』によると、もともとは幼子がいたが、ある時刃を誤って自らを傷つけて死亡した。放鷹に出かけていて訃報を聞いた勝隆は、「己が刃にて過ちて死するほどの気質にては、益に立つ器にあらず、見るに及ばず」と言ってそのまま放鷹を続けたという。その後、子に恵まれず、結局、大洲戸田家は無嗣断絶した。大洲の領地は戦役後の加増で、隣接する大名[[藤堂高虎]]に与えられた。▼
また、[[バテレン追放令]]に関連して、同年5月18日に秀吉の直轄地・[[肥前国|肥前]][[長崎]]に浅野長吉(長政)と共に派遣され、教会の土地の没収や地子免除などを行った際の書状に勝隆の署名が見られる<ref>史料綜覧11編912冊204頁。</ref>。
天正18年([[1590年]])、[[小田原征伐|小田原の役]]では四国衆と第九陣で従軍し、兵1,700を率いて[[韮山城]]の包囲に加わった<ref>{{Citation |和書|last=|first=|editor=東京帝国大学文学部史料編纂所|year=1920|chapter=小田原城並韮山城取巻人数書|title=大日本古文書. 家わけ八ノ四(毛利家文書之四)|publisher =東京帝国大学|url={{NDLDC|1915655/277}} 国立国会図書館デジタルコレクション|page=489}}</ref>。[[京の大仏]]建設の際の大木輸送にも勝隆ら四国勢が動員された{{sfn|長山|1935|p=227}}。
[[文禄]]元年([[1592年]])4月、[[文禄・慶長の役|文禄の役]]に出征し、兵3,900を率いて[[朝鮮]]へ渡海した。[[尚州]]の守備についた。第二次[[晋州城攻防戦]]には兵2,500と共に加わった。
文禄2年([[1593年]])5月より講和交渉のために[[巨済島]]に滞在<ref name="p164"/>。同月14日、[[蜂須賀家政]]・勝隆は巨済島から、秀吉側近の[[長束正家]]に、奉行が伴って入国した明の使節との講和交渉の首尾を質問している<ref>史料綜覧11編913冊19頁。</ref>。6月24日、豊臣秀次から書簡が来て勝隆の朝鮮在陣の労をねぎらわれた<ref>史料綜覧11編913冊24頁。</ref>。9月29日、巨済島海戦で福島正則・勝隆・[[島津義弘]]らが三道都体察使[[尹斗寿]]の率いる朝鮮海軍を撃破した<ref>史料綜覧11編913冊66頁。</ref>。文禄3年([[1594年]])、この頃、勝隆は在陣中に発病して、帰朝の途中で病死した<ref name="p164"/>{{refnest|ただし真鍋真入斎書付に「民部少輔京都ニテ、文禄四年七月秀次ノ事ニ座シテ自殺」とする記述もある<ref>史料綜覧11編</ref>。}}。享年は明らかではない。
▲『武家事紀』によると、もともとは幼子がいたが、ある時刃を誤って自らを傷つけて死亡した。放鷹に出かけていて訃報を聞いた勝隆は、「己が刃にて過ちて死するほどの気質にては、益に立つ器にあらず、見るに及ばず」と言ってそのまま放鷹を続けたという<ref name="bg"> {{Citation |和書|last=山鹿|first=素行|editor=|year =1915|chapter=第十四続集|title =武家事紀. 上巻|series=山鹿素行先生全集|publisher =山鹿素行先生全集刊行会|url={{NDLDC|946584/268}} 国立国会図書館デジタルコレクション|page=495}}</ref>。その後、子に恵まれず、結局、大洲戸田家は無嗣断絶した<ref name="p164"/>。大洲の領地は戦役後の加増で、隣接する大名[[藤堂高虎]]に与えられた。
== 親族 ==
秀吉の蔵入地7万石の代官を勤め、慶長元年(1595年)前後に秀吉から1万石を賜り大名となった戸田為重(家生・家正、民部少輔)は勝隆の子ともいうが、一族と考えられる<ref name="p164">{{Harvnb|高柳|松平|1981|loc=p.164}}</ref>。為重は、[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]では南の平野口を守備しているが、為重本人ではなく為重の子という説がある。
また、慶長3年(1598年)の大名石高帳に見られる戸田下野守(1万3千石)と戸田重治(豊前守・従五位、1万石)は、勝隆の係累ではないかと考えられるが詳細は不明である。
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== 参考文献 ==
* {{Citation |和書| last =長山| first =源雄|editor=|year =1935|chapter= 第三節 戸田勝隆と南豫| title =南予史概説|publisher =三机村学事会|url={{NDLDC|1080396/126}} 国立国会図書館デジタルコレクション}}
*{{Citation |和書| last =桑田|first=忠親 |author-link=桑田忠親| year =1971|title =太閤家臣団|publisher =新人物往来社|page=75}}{{ASIN|B000J9GTRU}}
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[[Category:織豊政権の大名]]
[[Category:文禄・慶長の役の人物]]
[[Category:16世紀生
[[Category:1594年没]]
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