「伏見扇太郎」の版間の差分

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しかし、1960年代に入って以降は伸び悩み、後輩である里見の主演作品の助演や、一般作品の端役にまでそのランクを下げ<ref>“斬られ役”の一人として東映全盛期の一端を支えた[[福本清三]]の著書(共著による聞き書き本)『どこかで誰かが見ていてくれる』(2003年、集英社文庫・P.292、ISBN 4087476510)には、伏見について「あんなに大スターやったんやけど、最後は私ら(大部屋俳優)と同じような仕事をされてましたからね。さぞ、つらかったと思いますわ。心の痛みが想像できますわ」という記述がある。</ref>、1965年にはスクリーンから姿を消した。その背景には[[黒澤明]]監督作品のリアリズムな時代劇が主流になり、東映もそれに同調し、伏見の華奢な体で剣戟の迫力があるのが不自然であるということで受けなくなったという一面もある。
 
1968年に[[結核]]となり、俳優を完全廃業。その後は東映が経営する[[ボウリング]]場で働いたとする話や、地方回りの大衆劇団に出た、バーを経営していた、またラーメン屋の屋台を動かしていたなど、没落の話題しか聞こえてこなくなった。[[1983年]][[11月26日]]に[[高知県]]で刃傷沙汰を起こし逮捕されたりもした。
 
その後、20数年ぶりに映画に出演し少し話題に上ったが、映画はヒットせず、[[1985年]]に妻を殺害され、晩年は気の毒な境遇だったという。その出演作品「玄海つれづれ節」では役名も伏見扇太郎そのままとして登場し、スターだった頃の映画を再び上映したいと願う若松の映画館主として登場していたのもなにか惨めすぎる感があった。