「防共協定」の版間の差分

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 項目名が欺瞞甚だしい。本当に「防共協定」だったら、米英・中華民国とは戦わず、真っ先にソ連や支那共産党と戦っていたはず。 
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締結当初は二国間協定である'''日独防共協定'''(にちどくぼうきょうきょうてい)と呼ばれ、国際共産主義運動を指導する[[コミンテルン]]に対抗する共同防衛をうたっており<ref>NHK取材班, p17</ref>、後の日独伊三国を中心とした軍事同盟、いわゆる[[枢軸国]]形成の先駆けとなった。
 
1937年に[[イタリア王国]]が原署名国として加盟し<ref name="日本と枢軸国" >{{アジア歴史資料センター|B13090857800|第二編 日本国ト枢軸諸国トノ条約関係/第三 防共関係}}</ref>、'''日独伊防共協定'''(にちどくいぼうきょうきょうてい)、あるいはより端的に'''日独伊軍事協定'''(にちどくいぐんじきょうてい)と呼ばれる三国協定となり、1939年には[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]と[[満州国]]、[[フランコ体制下のスペイン|スペイン]]が参加したことによって6カによる[[枢軸国]]協定となった。
 
1941年には条約の改定が実施されるとともにドイツ勢力圏にある複数6カ名目的に加盟したが、1945年における枢軸国の敗戦・崩壊とともに消滅した。
 
1945年05月08日のナチス・ドイツの[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|無条件降伏]]、1945年09月02日の[[軍国主義]]日本の[[日本の降伏|無条件降伏]]によって実質的に効力を持ち得なくなり、条文上からも5年間の効力が過ぎた1946年には自然失効した。
 
== 背景 ==
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1941年11月25日には期限満了を迎える協定の5年間延長を規定した条約がベルリンで調印されているが、秘密議定書については廃止されている<ref>{{アジア歴史資料センター|A03033463400|共産「インターナショナル」ニ対スル協定ノ効力延長ニ関スル日本国、「ドイツ」国、「イタリア」国、「ハンガリー」国、満洲国及「スペイン」国間議定書締結及右協定ノ秘密附属協定ノ廃止ニ関スル日本国、「ドイツ」国間秘密公文交換ノ件}}、{{アジア歴史資料センター|B13090857800|第二編 日本国ト枢軸諸国トノ条約関係/第三 防共関係}}</ref>。また同日には[[第二次世界大戦]]で枢軸側に参戦した[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]、[[フィンランド]]、[[ルーマニア王国]]、[[スロバキア共和国 (1939年-1945年)|スロバキア共和国]]、[[クロアチア独立国]]、ドイツの占領下に置かれた[[デンマーク]]が協定に参加し、また日本の指導下にあった中華民国([[汪兆銘政権]])も、11月25日時点での協定参加を宣言する公文を12月31日に日本政府に対して送付している<ref>{{アジア歴史資料センター|B13090857800|第二編 日本国ト枢軸諸国トノ条約関係/第三 防共関係}}</ref>。
 
1943年にコミンテルンは解散しているが、協定自体には何の影響も及ぼさなかった。また、1943年09月08日にイタリアが[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に降伏している。日独以外の協定締次々と戦争から離脱した上に、、1945年05月08日のナチス・ドイツおよびの[[無条件降伏]]、1945年09月02日の[[軍国主義]]日本の[[日本の降伏|無条件降伏]]と、この協定最大の当事国である日独が崩壊したことによってこの協定は実質的に効力を発揮し得ない虚しいものとなた。また、条文上においても、5年間の効力が過ぎて更新されなくなった1946年には自然失効した。
 
== 脚注 ==